序
これは昭和五十九年の夏、僕が十九のときの話です。
もう四十年以上経ちました。それでも、夏の夜に生ぬるい風が吹くと、いまだにあの匂いを思い出します。排気ガスと、こぼれた酒と、誰かの香水が混ざった、飲屋街の匂いです。
この話を、僕はこれまで誰にも最後まで話したことがありません。
話さなかったのは、怖かったからではないんです。
話してしまうと、こちらを向かれる気がしたからです。
一 昭和五十九年、駐車場
大学生活というものは、僕にとって夢や希望とは縁のないものでした。
第一志望に落ちて、滑り止めのそのまた滑り止めのような大学に受かって、そこへ通うことになりました。いわゆるFランです。当時はそんな言い方はしませんでしたが、実態は同じです。
朝は起きられず、講義は退屈で、キャンパスの人混みにはどうしても馴染めませんでした。何を学べばいいのかも分からない。ただ、親の金で四年間ぼんやりしている自分が、日に日に薄くなっていくような感じがしていました。
そんな僕を辛うじて世の中につないでいたのが、夜勤のアルバイトです。
飲屋街の外れにある、コインパーキングになる前の時代の、係員が客の車を預かって停める方式の駐車場でした。まわりはスナックと居酒屋がびっしり並んでいて、夜十時を過ぎると人と車がひっきりなしに出入りする。免許を取ったばかりの僕には、他人の車のハンドルを握れるというだけで、それは大した仕事に思えました。
いま思えば、あの狭い区画に高級車を一発で入れられるようになったことが、十九年生きてきて初めて手に入れた技術でした。
その駐車場で出会ったのが、A先輩です。
僕はすぐに「兄貴」と呼ぶようになりました。以下、そう書きます。
二 兄貴
兄貴は駐車場のオーナーの息子で、歳は三十を少し出たところだったと思います。
極真の有段者で、肩から腕にかけての厚みが服の上からでも分かる人でした。首が太い。座っていても座っていない人みたいな存在感がある。酒はいくらでも飲むし、口はとにかく悪い。
初日に僕が客のベンツを柱に擦ったとき、兄貴は傷を三十秒ほど眺めて、こう言いました。
「ワシは見てへん。お前も見てへん。ええな」
「え、でも」
「ええな、言うとんねん」兄貴は僕の肩を叩きました。人の肩を叩く力ではありませんでした。「そのかわりお前、一生ワシの子分やぞ」
結局その傷は、翌週になっても誰も何も言いませんでした。兄貴が自分の金で直したのだと知ったのは、ずっと後のことです。
夜勤明けにはよく飯に連れていってくれました。牛丼のときもあれば、僕が到底行けないような焼肉のときもあった。金を出させてもらえたことは一度もありません。断ると本気で怒るので、僕は途中から素直に食うことにしました。
十九の僕にとって、兄貴は世界で二番目くらいに強い人でした。
一番目は特にいませんでした。
三 その道を教えたのは、僕でした
六月の終わりごろだったと思います。
深夜二時を回って、車の出入りが途切れた時間帯でした。僕はプレハブの詰所で、備え付けの小さな扇風機の風を顔に当てながら、ぼんやり座っていました。
顔を上げたら、駐車場の真ん中に女が立っていました。
入ってくる音がしなかった。それだけは、はっきり覚えています。
黒髪が腰まであって、白いワンピースを着ていました。街灯の下でも肌が白い。というより、青白い。夏の夜なのに、汗をかいている気配がまるでありませんでした。
その人は僕のほうへ真っ直ぐ歩いてきて、詰所の窓越しに顔を寄せ、言いました。
「『蒼』って、どこですか」
声は低くて、静かでした。
僕は、その店を知っていました。うちの駐車場の常連が何人か通っている、看板に「蒼」の一文字だけが出ている、灯りの暗いスナックです。
「ああ、それは——」
僕が身を乗り出して、指をさそうとしたときです。
「そっちちゃう」
僕の顔の前に、横から、腕が一本出てきました。
窓と僕のあいだを、その腕が塞いでいました。兄貴でした。いつのまに来ていたのか、僕はまったく気づきませんでした。
「こっちや。角二つ曲がったとこ。分かりにくいから、送ったるわ」
女は初めて、少しだけ笑いました。
その笑い方を、なんと説明すればいいのか、僕は四十年考えて、いまだに言葉が見つかりません。嬉しそうでも、優しそうでもなかった。ただ、やっと見つかった、という顔でした。
二人は並んで駐車場を出ていきました。
兄貴が戻ってきたのは、三十分ほど後です。妙に上機嫌でした。
「お前な、ああいう女に道教えたらあかんぞ」
「なんでですか」
「食われるからや」
兄貴は笑いながら、僕の頭を乱暴に撫でました。
僕も笑いました。
——このやりとりを、僕はその後の人生で、何百回も思い返すことになります。
四 異変の兆し
七月に入ってしばらくすると、兄貴の様子が変わりました。
最初は「最近やたら疲れる」と言うだけでした。誰にでもあることです。夏ですし、あの人は毎晩飲んでいましたから。
けれど、それは二週間で明らかにおかしくなりました。
顔色が悪い。目の下に、化粧でもしたみたいな濃い隈ができている。歩くのが遅い。あの兄貴が、詰所の段差を上がるのに手すりを掴んでいるのを見たときは、正直、目を疑いました。
極真の有段者が、たった二週間で、階段が上れなくなったんです。
「先輩、一回病院行ったほうがええですよ」
勇気を出してそう言うと、兄貴は苦笑いをしました。
「病院で治るもんちゃうねん」
「なんでですか」
「多分な」兄貴は少し黙って、それから言いました。「あの女や」
僕は最初、意味が分かりませんでした。
あの夜の女です。あれから兄貴は「蒼」に通い詰めるようになっていて、僕もそれは知っていました。三十過ぎの男が、美人に入れあげている。それだけの話だと思っていました。
「向こうから待っとるようになったんや」
兄貴は缶コーヒーを両手で包むように持っていました。八月の夜に、温かいほうを買っていました。
「約束もしてへんのに、店の外におる。ワシの上がりの時間、教えたことないねんぞ。日によって違うのに、必ずおる」
「……偶然ちゃいますか」
「毎晩やぞ」
兄貴は、僕を見ませんでした。
「おかしいやろ。おかしいんや。分かっとんねん」缶を握る指が、白くなっていました。「でもな、そのときのワシは、運命や思てたんや」
その夜、詰所の蛍光灯の下で、兄貴が腕まくりをしたときのことです。
二の腕の内側に、黒っぽい斑点がいくつも浮いていました。虫刺されではありません。あざとも違う。皮膚の下に、墨を数滴落としたような、輪郭のはっきりしない黒でした。
「それ、なんですか」
兄貴はちらっと見て、袖を下ろしました。
「蚊にでも刺されたんちゃうか」
笑っていましたが、乾いた笑い方でした。
五 吸われる
八月に入った、ある夜のことです。
休憩中、缶コーヒーを二本買ってきた兄貴が、一本を僕に押しつけて、隣に座りました。しばらく黙っていて、それから、前を向いたままぽつりと言いました。
「あの女とな。……寝るときの話やねんけど」
僕は缶を落としそうになりました。十九の僕には、あまりに情報が重すぎたんです。
「い、いや、そういうのは」
「聞け」
兄貴の顔を見て、僕は黙りました。
真剣、というのとは違いました。あれは、怯えている人の顔でした。
「必ず、あっちが上に来るんや」
「……はあ」
「そんで、肩をな。両手で、こう、押さえつけてくる」兄貴は自分の肩に手を置いてみせました。「そしたら、身体が一切動かんようになる。指一本や。息も浅うなる」
金縛りみたいなものかと僕は思いました。そう言おうとして、やめました。
「終わったあと、しばらく起き上がられへん。三十分か、一時間か。天井見とるだけや」
兄貴は、缶のプルタブを何度も指で弾いていました。カチ、カチ、と鳴っていました。
「まるで、魂を吸われとるみたいや」
僕は何も言えませんでした。
「でもな、おかしいのはそこちゃうねん」
兄貴は続けました。
「痩せとるんや。体重計は減っとる。十キロ以上落ちた。なのにな、身体は重いんや。軽うならへん。歩くのもしんどい。砂袋背負うとるみたいや」
「……」
「痩せて重なるやつ、おるか?」
いません。
当時の僕にはうまく説明できませんでしたが、いまなら分かります。あれは、減っていたんじゃない。中身が抜けて、代わりに別のものが詰まっていたんです。
六 カフェ・ブラジル
その数日後の夕方、僕と兄貴はバイト前にいつもの喫茶店へ寄りました。
「カフェ・ブラジル」という、古い木造の店です。カウンターの奥でレコードが静かに回っていて、ヤニで飴色になった壁に、行ったこともなさそうな南国の風景写真が飾ってありました。
マスターは無愛想な人で、注文を取るとき以外は喋りません。コーヒーは正直、薄かった。それでも僕らはほとんど毎日そこにいました。ほかに行くところがなかったんです。
その日、アイスコーヒーを二つ運んできたマスターが、兄貴の顔を見て、初めて自分から口をききました。
「あんた、痩せたな」
それだけ言って、戻っていきました。
その直後です。
入口の扉が開いて、坊さんが入ってきました。
この街ではちょっと知られた人でした。六十手前で、真言宗の袈裟を着ていて、胸元に大きな数珠を下げている。無口で、いつも一人でこの店に来て、ミルクセーキを飲んで帰る。
なぜミルクセーキなのかは、誰も知りませんでした。
「視える人らしいで」という噂だけが、飲屋街には流れていました。当時の僕はそういう話をまるで信じていませんでしたし、正直、坊さんのことは「変わった常連のおっさん」くらいにしか思っていませんでした。
その坊さんが、僕らのテーブルの横を通りかかって、足を止めました。
兄貴の顔を見て、動きが止まったんです。
二秒か、三秒。それから、静かに言いました。
「……吸われとるな。もう長ないで」
店内の空気が、音を立てて凍ったような気がしました。
「え。あの、何を——」
兄貴が言いかけたところに、坊さんはかぶせました。
「最近、黒髪の長い女と付き合うようになったやろ。妙に色っぽうて、笑た顔が怖い女や」
僕は、背中に氷を入れられたようになりました。
兄貴は目を見開いたまま、固まっていました。
坊さんは断りもせずに向かいの椅子に座り、通りかかったマスターに指を一本立てて、いつものミルクセーキを頼みました。それから、こう言いました。
「あれはな、黒竜人や」
「こく、りゅう、じん」
兄貴が、噛むように繰り返しました。
「蛇の霊や」坊さんは言いました。「南の、海に近い土地で伝わっとるもんでな。人の精気を喰うて生きとる」
「……蛇」
「女が悪いんちゃう。女はもう、入れもんや」
坊さんは、届いたミルクセーキをストローでかき混ぜながら、まるで天気の話をするように続けました。
「中身は、とうに別のもんに入れ替わっとる。あれが自分で選んで、自分で歩いて、男んとこへ行く。喰い終わったら、また次の入れもんを探すんや」
僕は思わず口を挟みました。
「あの、それって、どうにかなるんですか」
坊さんは初めて僕のほうを見ました。
目が合った瞬間、この人はさっきから兄貴を見ていたのではなく、兄貴の後ろあたりを見ていたのだと分かりました。
「その女と切れる。それしかない」
「切れたら助かるんですか」
「切れんかったら、確実に死ぬ」
答えになっていませんでした。僕がそのことに気づいたのは、ずっと後です。
坊さんはミルクセーキを半分ほど飲んで、それから兄貴に言いました。
「ワシに方法はある。……その女を、いっぺんここへ連れてこい。そしたら分かる」
その夜、兄貴は震える指でタバコに火をつけて、「分かった」とだけ言いました。
僕は、アイスコーヒーがぬるくなっていくのを、ただ眺めていました。
七 対面
三日後。
兄貴は、彼女を喫茶店に連れてきました。
白いワンピースに、腰までの黒髪。あの夜の駐車場で見たときと、何ひとつ変わっていませんでした。真夏の夕方だというのに、汗をかいていない。日焼けもしていない。服が同じでした。
彼女は兄貴の隣に座って、じっと黙っていました。
誰とも目を合わせず、水にも手をつけず、膝の上で手を重ねて、ただ座っていた。
兄貴のほうが緊張していました。あれだけ豪快だった人が、まるで面接に来た子どもみたいに、背筋をまっすぐ伸ばして座っているんです。僕はそれを見ているのがつらくて、ずっとテーブルの木目を見ていました。
そこへ、扉が開きました。
坊さんが入ってきた——その瞬間です。
彼女の身体が、小さく、ひとつ震えました。
坊さんは何も言わず、まっすぐ歩いてきて、テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろしました。
二秒でした。
彼女が突然立ち上がって、叫びました。
「キィィィィ——ッ!!」
人の声ではありませんでした。喉から出ている音ですらないような、金属を細く削るような音でした。
目が、真っ黒でした。
白目の部分まで、墨を流したように黒く染まっていました。全身が痙攣していて、髪が肩の上でばらばらに跳ねていました。
店にいた常連の一人が——マスターの弟さんでした。手伝いに来ていたんです——とっさに彼女の腕を掴みました。
止めようとしたんだと思います。
掴んだ、その瞬間でした。
弟さんの目が、かっと見開かれました。
そして、にやりと笑ったんです。
次の瞬間には厨房へ走り込んでいて、包丁を握って、自分の右手首を切りました。
血が噴きました。悲鳴が上がりました。誰かがテーブルをひっくり返して、氷とグラスが床に散らばりました。
店の中は、一瞬で地獄になりました。
兄貴は、彼女のほうを呆然と見つめたまま、動きませんでした。
僕は腰が抜けて、椅子から落ちて、そのまま床に座り込んでいました。血が、僕の靴のすぐそばまで流れてきたのを覚えています。
その騒ぎの中を、彼女は無言のまま、まっすぐ歩いて店を出ていきました。
坊さんは、立ち上がりませんでした。
ただ静かに、その背中を見送っていました。
それから、床に座り込んだままの僕に、言いました。
「……見たやろ。あれが黒竜人や」
弟さんは、救急車で運ばれて、命は助かりました。
ただ、右手はその後、二度と元通りには動きませんでした。あの人は結局、それからずっと左手でコーヒーを淹れていました。
退院してしばらくしてから、僕は一度だけ、あの日のことを聞きました。
弟さんは、ほとんど覚えていませんでした。腕を掴んだところまでは覚えている。そのあと、病院のベッドで目が覚めるまでが、まるごと空白なのだと言いました。
ただ、ひとつだけ覚えていることがある、と。
「腕を掴んだ瞬間にな」
左手で灰皿を引き寄せながら、その人は言いました。
「入ってきよってん」
僕は何も言えませんでした。
「肩からや。ぬるっと、こう。……で、ワシの右手が、ワシの言うこと聞かんようになった。ワシのやのに、ワシのちゃうねん」
だから切った、と、その人は言いました。
「切ったら、出ていきよったわ」
あとで坊さんに、その話をしました。坊さんはミルクセーキをかき混ぜる手を止めずに、こう言いました。
「あれは自分を傷つけたんちゃう。追い出したんや」
そして、そのあとに続けた言葉を、僕はずっと忘れられずにいます。
「右手一本で済んだんやから、あの人は運がええ。……たいていの人間はな、入ってきたもんを、追い出さへん」
「なんでですか」
「気に入ってまうからや」
坊さんはストローから口を離して、初めて僕のほうを真っ直ぐ見ました。
「触ったら、すぐ出る。……見られただけのほうが、遅う効く」
当時の僕は、その意味が分かりませんでした。
八 結界の七日間
その夜、坊さんは兄貴のアパートへ来ました。
護符を扉の内側と窓に貼り、部屋の四隅に塩を盛り、数珠を持って一時間ほど何かを唱えていました。僕は邪魔にならないように、玄関の三和土に立って見ていました。
終わってから、坊さんは兄貴にこう言いました。
「七日や」
「七日、外に出るなってことですか」
「絶対に出るな。誰が来ても、何を言われても、扉を開けるな。目を合わせるな。気配に返事をするな」
兄貴はうなずきました。
「七日耐えたら、助かるんですか」
僕が横から聞きました。
坊さんは、僕のほうを見ませんでした。
「七日で、決まる」
そう言って、帰っていきました。
——いま思えば、あの人は一度も「助かる」とは言わなかったんです。
その七日間は、本当に地獄でした。
僕はバイトの前後に、必ず様子を見に行きました。部屋には入らず、外の階段の踊り場から窓の灯りを確かめて帰る。それだけです。
二日目の夜から、声がしはじめました。
女の声でした。扉の、すぐ向こう側から聞こえるんです。
「ねぇ、開けてよ」
「寒いの」
「寂しいよ」
僕は階段の下で、動けなくなりました。声のするほうを見ましたが、扉の前には誰もいないんです。誰もいないところから、ちゃんと女の声がしている。
三日目には、扉を爪で引っ掻くような音が加わりました。ゆっくり、規則的に、上から下へ。何十回も。
四日目には、ドアノブが回りました。
僕はそれを、階段の途中から見ていました。ゆっくり、根気よく、一定の速さで、ドアノブだけが回っていました。
兄貴は、耳栓をして、布団の中で震えていました。差し入れの弁当も、ほとんど手をつけていませんでした。
五日目、僕が窓の外から声をかけると、兄貴が中から言いました。
「おい」
「はい」
「ワシ、あいつのこと、まだ好きやねん」
僕は、何と答えればいいのか分かりませんでした。
「……あかんことですよ、それ」
「あかんのは分かっとる」
布団のこすれる音がしました。
「けどな、あいつ、あんな声で泣いとんねん」
六日目の夜は、何も起きませんでした。
そして七日目の夜も、何も起きませんでした。
声も、音も、気配も、すべて消えていました。
僕は踊り場で、明け方まで待ちました。何も来ませんでした。空が白んで、雀が鳴きはじめて、僕はようやく、終わったんだと思いました。
九 揃えられた靴
翌日、兄貴は少しだけ笑いました。
「なんか……終わった気がするわ」
久しぶりに二人でラーメンを食べに行きました。兄貴は半分残しました。それでも、僕が入った頃と同じ席で、同じように箸を持っている兄貴を見て、僕は泣きそうになりました。
その三日後です。
兄貴が、消えました。
部屋の鍵は開いていました。財布は机の上、免許証も、通帳も、そのままでした。夏物のシャツが物干しに干したままになっていて、部屋のどこにも争った跡はありませんでした。
玄関に、靴が揃えて置かれていました。
兄貴の靴は、一足も減っていませんでした。仕事用の革靴も、サンダルも、全部ありました。それが、つま先を扉のほうへ向けて、きれいに並べてありました。
几帳面な人ではありませんでした。あの人が靴を揃えているのを、僕は一度も見たことがありません。
警察も動きましたが、手がかりは何ひとつ出ませんでした。
部屋の片づけを手伝ったのは、その一週間後です。
畳の上に、坊さんが盛った塩がまだ残っていました。四隅とも、山が崩れていました。
僕はしゃがんで、それを見ていました。
四つとも、同じ方向へ、細く尾を引いて崩れていたんです。部屋の中心から、外へ向かって。まるで、何かがそこを内側から踏んで通っていったみたいに。
扉のほうを振り返りました。
護符は、剥がれていました。
剥がれた縁が、内側へめくれていました。
僕は指でそれをつまんで、しばらく立っていました。何かがおかしいことは分かるのに、それが何なのかが分からない。そういう状態でした。
その足で坊さんのところへ行って、見たままを話しました。塩が外へ崩れていたこと。護符のめくれ方。
坊さんは、目を閉じました。
そして、何も言いませんでした。
僕は「あの女が入ってきたってことですか」と聞きました。坊さんは目を閉じたままでした。もう一度聞きました。返事はありませんでした。
結局その日、あの人が口をきいたのは、僕が帰り際に玄関で靴を履いているときの、一言だけです。
「七日で決まる、て言うたやろ」
——僕がその意味を本当に理解したのは、四十を過ぎてからでした。
結界は、破られたのではありません。
内側から、開けられたんです。
そして、坊さんがあの部屋に張ったものは、女を入れないためのものではありませんでした。
兄貴を、外へ出さないためのものでした。
あの人は最初から、兄貴が自分から歩いていくことを知っていたんです。だから一度も「助かる」とは言わなかった。
靴が揃っていたのも、そういうことです。
脱ぎ散らかしたまま出ていく人間は、また帰ってくる人間です。
兄貴は、連れていかれたのではありません。
自分で扉を開けて、裸足のまま、歩いていったんです。
十 四十年
あれから四十年あまりが経ちました。
僕は普通に就職して、普通に結婚して、子どもを二人育てて、去年、定年を迎えました。
坊さんは、僕が大学を出た年に亡くなったと聞きました。カフェ・ブラジルは平成の初めに閉まって、いまはコインパーキングになっています。皮肉なものです。あの区画に車を停めるとき、僕はいつも、誰かに見られている気がします。
兄貴のことは、ずっと考えないようにしてきました。
ただ、夏になると、思い出します。
あの生ぬるい風の匂いと、缶コーヒーのプルタブを弾く音と、僕の頭を乱暴に撫でた、あの分厚い手のことです。
終章 その人
去年の夏のことです。
娘がスマートフォンで、旅先の写真を僕に見せてきました。海の近くの、古い商店街の写真でした。
「お父さん、ここ昔よく行ってたって言ってたとこじゃない?」
僕は老眼鏡をかけて、画面を覗き込みました。
娘の後ろに、通行人が何人か写っていました。
その中に、白いワンピースを着た、黒髪の長い女が立っていました。
こちらを向いていました。
僕は、その顔を知っています。
四十年前と、何ひとつ変わっていませんでした。
僕は、娘に何も言えませんでした。
あの夜、駐車場で、あの女が探していたのは店ではありません。
最初に見られたのは、僕でした。
兄貴は、僕と窓のあいだに腕を出して、こう言ったんです。
「そっちちゃう。こっちや」
触ったら、すぐ出る。見られただけのほうが、遅う効く。
四十年です。
四十年かかって、こちらへ来たんです。
娘が、画面をこちらへ差し出したまま、僕の顔を覗き込んでいました。
「お父さん、どうしたん」
僕は老眼鏡を外しました。
そして、娘と画面のあいだに、腕を伸ばしました。
《了》
序
これは昭和五十九年の夏、僕が十九のときの話です。
もう四十年以上経ちました。それでも、夏の夜に生ぬるい風が吹くと、いまだにあの匂いを思い出します。排気ガスと、こぼれた酒と、誰かの香水が混ざった、飲屋街の匂いです。
この話を、僕はこれまで誰にも最後まで話したことがありません。
話さなかったのは、怖かったからではないんです。
話してしまうと、こちらを向かれる気がしたからです。
一 昭和五十九年、駐車場
大学生活というものは、僕にとって夢や希望とは縁のないものでした。
第一志望に落ちて、滑り止めのそのまた滑り止めのような大学に受かって、そこへ通うことになりました。いわゆるFランです。当時はそんな言い方はしませんでしたが、実態は同じです。
朝は起きられず、講義は退屈で、キャンパスの人混みにはどうしても馴染めませんでした。何を学べばいいのかも分からない。ただ、親の金で四年間ぼんやりしている自分が、日に日に薄くなっていくような感じがしていました。
そんな僕を辛うじて世の中につないでいたのが、夜勤のアルバイトです。
飲屋街の外れにある、コインパーキングになる前の時代の、係員が客の車を預かって停める方式の駐車場でした。まわりはスナックと居酒屋がびっしり並んでいて、夜十時を過ぎると人と車がひっきりなしに出入りする。免許を取ったばかりの僕には、他人の車のハンドルを握れるというだけで、それは大した仕事に思えました。
いま思えば、あの狭い区画に高級車を一発で入れられるようになったことが、十九年生きてきて初めて手に入れた技術でした。
その駐車場で出会ったのが、A先輩です。
僕はすぐに「兄貴」と呼ぶようになりました。以下、そう書きます。
二 兄貴
兄貴は駐車場のオーナーの息子で、歳は三十を少し出たところだったと思います。
極真の有段者で、肩から腕にかけての厚みが服の上からでも分かる人でした。首が太い。座っていても座っていない人みたいな存在感がある。酒はいくらでも飲むし、口はとにかく悪い。
初日に僕が客のベンツを柱に擦ったとき、兄貴は傷を三十秒ほど眺めて、こう言いました。
「ワシは見てへん。お前も見てへん。ええな」
「え、でも」
「ええな、言うとんねん」兄貴は僕の肩を叩きました。人の肩を叩く力ではありませんでした。「そのかわりお前、一生ワシの子分やぞ」
結局その傷は、翌週になっても誰も何も言いませんでした。兄貴が自分の金で直したのだと知ったのは、ずっと後のことです。
夜勤明けにはよく飯に連れていってくれました。牛丼のときもあれば、僕が到底行けないような焼肉のときもあった。金を出させてもらえたことは一度もありません。断ると本気で怒るので、僕は途中から素直に食うことにしました。
十九の僕にとって、兄貴は世界で二番目くらいに強い人でした。
一番目は特にいませんでした。
三 その道を教えたのは、僕でした
六月の終わりごろだったと思います。
深夜二時を回って、車の出入りが途切れた時間帯でした。僕はプレハブの詰所で、備え付けの小さな扇風機の風を顔に当てながら、ぼんやり座っていました。
顔を上げたら、駐車場の真ん中に女が立っていました。
入ってくる音がしなかった。それだけは、はっきり覚えています。
黒髪が腰まであって、白いワンピースを着ていました。街灯の下でも肌が白い。というより、青白い。夏の夜なのに、汗をかいている気配がまるでありませんでした。
その人は僕のほうへ真っ直ぐ歩いてきて、詰所の窓越しに顔を寄せ、言いました。
「『蒼』って、どこですか」
声は低くて、静かでした。
僕は、その店を知っていました。うちの駐車場の常連が何人か通っている、看板に「蒼」の一文字だけが出ている、灯りの暗いスナックです。
「ああ、それは——」
僕が身を乗り出して、指をさそうとしたときです。
「そっちちゃう」
僕の顔の前に、横から、腕が一本出てきました。
窓と僕のあいだを、その腕が塞いでいました。兄貴でした。いつのまに来ていたのか、僕はまったく気づきませんでした。
「こっちや。角二つ曲がったとこ。分かりにくいから、送ったるわ」
女は初めて、少しだけ笑いました。
その笑い方を、なんと説明すればいいのか、僕は四十年考えて、いまだに言葉が見つかりません。嬉しそうでも、優しそうでもなかった。ただ、やっと見つかった、という顔でした。
二人は並んで駐車場を出ていきました。
兄貴が戻ってきたのは、三十分ほど後です。妙に上機嫌でした。
「お前な、ああいう女に道教えたらあかんぞ」
「なんでですか」
「食われるからや」
兄貴は笑いながら、僕の頭を乱暴に撫でました。
僕も笑いました。
——このやりとりを、僕はその後の人生で、何百回も思い返すことになります。
四 異変の兆し
七月に入ってしばらくすると、兄貴の様子が変わりました。
最初は「最近やたら疲れる」と言うだけでした。誰にでもあることです。夏ですし、あの人は毎晩飲んでいましたから。
けれど、それは二週間で明らかにおかしくなりました。
顔色が悪い。目の下に、化粧でもしたみたいな濃い隈ができている。歩くのが遅い。あの兄貴が、詰所の段差を上がるのに手すりを掴んでいるのを見たときは、正直、目を疑いました。
極真の有段者が、たった二週間で、階段が上れなくなったんです。
「先輩、一回病院行ったほうがええですよ」
勇気を出してそう言うと、兄貴は苦笑いをしました。
「病院で治るもんちゃうねん」
「なんでですか」
「多分な」兄貴は少し黙って、それから言いました。「あの女や」
僕は最初、意味が分かりませんでした。
あの夜の女です。あれから兄貴は「蒼」に通い詰めるようになっていて、僕もそれは知っていました。三十過ぎの男が、美人に入れあげている。それだけの話だと思っていました。
「向こうから待っとるようになったんや」
兄貴は缶コーヒーを両手で包むように持っていました。八月の夜に、温かいほうを買っていました。
「約束もしてへんのに、店の外におる。ワシの上がりの時間、教えたことないねんぞ。日によって違うのに、必ずおる」
「……偶然ちゃいますか」
「毎晩やぞ」
兄貴は、僕を見ませんでした。
「おかしいやろ。おかしいんや。分かっとんねん」缶を握る指が、白くなっていました。「でもな、そのときのワシは、運命や思てたんや」
その夜、詰所の蛍光灯の下で、兄貴が腕まくりをしたときのことです。
二の腕の内側に、黒っぽい斑点がいくつも浮いていました。虫刺されではありません。あざとも違う。皮膚の下に、墨を数滴落としたような、輪郭のはっきりしない黒でした。
「それ、なんですか」
兄貴はちらっと見て、袖を下ろしました。
「蚊にでも刺されたんちゃうか」
笑っていましたが、乾いた笑い方でした。
五 吸われる
八月に入った、ある夜のことです。
休憩中、缶コーヒーを二本買ってきた兄貴が、一本を僕に押しつけて、隣に座りました。しばらく黙っていて、それから、前を向いたままぽつりと言いました。
「あの女とな。……寝るときの話やねんけど」
僕は缶を落としそうになりました。十九の僕には、あまりに情報が重すぎたんです。
「い、いや、そういうのは」
「聞け」
兄貴の顔を見て、僕は黙りました。
真剣、というのとは違いました。あれは、怯えている人の顔でした。
「必ず、あっちが上に来るんや」
「……はあ」
「そんで、肩をな。両手で、こう、押さえつけてくる」兄貴は自分の肩に手を置いてみせました。「そしたら、身体が一切動かんようになる。指一本や。息も浅うなる」
金縛りみたいなものかと僕は思いました。そう言おうとして、やめました。
「終わったあと、しばらく起き上がられへん。三十分か、一時間か。天井見とるだけや」
兄貴は、缶のプルタブを何度も指で弾いていました。カチ、カチ、と鳴っていました。
「まるで、魂を吸われとるみたいや」
僕は何も言えませんでした。
「でもな、おかしいのはそこちゃうねん」
兄貴は続けました。
「痩せとるんや。体重計は減っとる。十キロ以上落ちた。なのにな、身体は重いんや。軽うならへん。歩くのもしんどい。砂袋背負うとるみたいや」
「……」
「痩せて重なるやつ、おるか?」
いません。
当時の僕にはうまく説明できませんでしたが、いまなら分かります。あれは、減っていたんじゃない。中身が抜けて、代わりに別のものが詰まっていたんです。
六 カフェ・ブラジル
その数日後の夕方、僕と兄貴はバイト前にいつもの喫茶店へ寄りました。
「カフェ・ブラジル」という、古い木造の店です。カウンターの奥でレコードが静かに回っていて、ヤニで飴色になった壁に、行ったこともなさそうな南国の風景写真が飾ってありました。
マスターは無愛想な人で、注文を取るとき以外は喋りません。コーヒーは正直、薄かった。それでも僕らはほとんど毎日そこにいました。ほかに行くところがなかったんです。
その日、アイスコーヒーを二つ運んできたマスターが、兄貴の顔を見て、初めて自分から口をききました。
「あんた、痩せたな」
それだけ言って、戻っていきました。
その直後です。
入口の扉が開いて、坊さんが入ってきました。
この街ではちょっと知られた人でした。六十手前で、真言宗の袈裟を着ていて、胸元に大きな数珠を下げている。無口で、いつも一人でこの店に来て、ミルクセーキを飲んで帰る。
なぜミルクセーキなのかは、誰も知りませんでした。
「視える人らしいで」という噂だけが、飲屋街には流れていました。当時の僕はそういう話をまるで信じていませんでしたし、正直、坊さんのことは「変わった常連のおっさん」くらいにしか思っていませんでした。
その坊さんが、僕らのテーブルの横を通りかかって、足を止めました。
兄貴の顔を見て、動きが止まったんです。
二秒か、三秒。それから、静かに言いました。
「……吸われとるな。もう長ないで」
店内の空気が、音を立てて凍ったような気がしました。
「え。あの、何を——」
兄貴が言いかけたところに、坊さんはかぶせました。
「最近、黒髪の長い女と付き合うようになったやろ。妙に色っぽうて、笑た顔が怖い女や」
僕は、背中に氷を入れられたようになりました。
兄貴は目を見開いたまま、固まっていました。
坊さんは断りもせずに向かいの椅子に座り、通りかかったマスターに指を一本立てて、いつものミルクセーキを頼みました。それから、こう言いました。
「あれはな、黒竜人や」
「こく、りゅう、じん」
兄貴が、噛むように繰り返しました。
「蛇の霊や」坊さんは言いました。「南の、海に近い土地で伝わっとるもんでな。人の精気を喰うて生きとる」
「……蛇」
「女が悪いんちゃう。女はもう、入れもんや」
坊さんは、届いたミルクセーキをストローでかき混ぜながら、まるで天気の話をするように続けました。
「中身は、とうに別のもんに入れ替わっとる。あれが自分で選んで、自分で歩いて、男んとこへ行く。喰い終わったら、また次の入れもんを探すんや」
僕は思わず口を挟みました。
「あの、それって、どうにかなるんですか」
坊さんは初めて僕のほうを見ました。
目が合った瞬間、この人はさっきから兄貴を見ていたのではなく、兄貴の後ろあたりを見ていたのだと分かりました。
「その女と切れる。それしかない」
「切れたら助かるんですか」
「切れんかったら、確実に死ぬ」
答えになっていませんでした。僕がそのことに気づいたのは、ずっと後です。
坊さんはミルクセーキを半分ほど飲んで、それから兄貴に言いました。
「ワシに方法はある。……その女を、いっぺんここへ連れてこい。そしたら分かる」
その夜、兄貴は震える指でタバコに火をつけて、「分かった」とだけ言いました。
僕は、アイスコーヒーがぬるくなっていくのを、ただ眺めていました。
七 対面
三日後。
兄貴は、彼女を喫茶店に連れてきました。
白いワンピースに、腰までの黒髪。あの夜の駐車場で見たときと、何ひとつ変わっていませんでした。真夏の夕方だというのに、汗をかいていない。日焼けもしていない。服が同じでした。
彼女は兄貴の隣に座って、じっと黙っていました。
誰とも目を合わせず、水にも手をつけず、膝の上で手を重ねて、ただ座っていた。
兄貴のほうが緊張していました。あれだけ豪快だった人が、まるで面接に来た子どもみたいに、背筋をまっすぐ伸ばして座っているんです。僕はそれを見ているのがつらくて、ずっとテーブルの木目を見ていました。
そこへ、扉が開きました。
坊さんが入ってきた——その瞬間です。
彼女の身体が、小さく、ひとつ震えました。
坊さんは何も言わず、まっすぐ歩いてきて、テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろしました。
二秒でした。
彼女が突然立ち上がって、叫びました。
「キィィィィ——ッ!!」
人の声ではありませんでした。喉から出ている音ですらないような、金属を細く削るような音でした。
目が、真っ黒でした。
白目の部分まで、墨を流したように黒く染まっていました。全身が痙攣していて、髪が肩の上でばらばらに跳ねていました。
店にいた常連の一人が——マスターの弟さんでした。手伝いに来ていたんです——とっさに彼女の腕を掴みました。
止めようとしたんだと思います。
掴んだ、その瞬間でした。
弟さんの目が、かっと見開かれました。
そして、にやりと笑ったんです。
次の瞬間には厨房へ走り込んでいて、包丁を握って、自分の右手首を切りました。
血が噴きました。悲鳴が上がりました。誰かがテーブルをひっくり返して、氷とグラスが床に散らばりました。
店の中は、一瞬で地獄になりました。
兄貴は、彼女のほうを呆然と見つめたまま、動きませんでした。
僕は腰が抜けて、椅子から落ちて、そのまま床に座り込んでいました。血が、僕の靴のすぐそばまで流れてきたのを覚えています。
その騒ぎの中を、彼女は無言のまま、まっすぐ歩いて店を出ていきました。
坊さんは、立ち上がりませんでした。
ただ静かに、その背中を見送っていました。
それから、床に座り込んだままの僕に、言いました。
「……見たやろ。あれが黒竜人や」
弟さんは、救急車で運ばれて、命は助かりました。
ただ、右手はその後、二度と元通りには動きませんでした。あの人は結局、それからずっと左手でコーヒーを淹れていました。
退院してしばらくしてから、僕は一度だけ、あの日のことを聞きました。
弟さんは、ほとんど覚えていませんでした。腕を掴んだところまでは覚えている。そのあと、病院のベッドで目が覚めるまでが、まるごと空白なのだと言いました。
ただ、ひとつだけ覚えていることがある、と。
「腕を掴んだ瞬間にな」
左手で灰皿を引き寄せながら、その人は言いました。
「入ってきよってん」
僕は何も言えませんでした。
「肩からや。ぬるっと、こう。……で、ワシの右手が、ワシの言うこと聞かんようになった。ワシのやのに、ワシのちゃうねん」
だから切った、と、その人は言いました。
「切ったら、出ていきよったわ」
あとで坊さんに、その話をしました。坊さんはミルクセーキをかき混ぜる手を止めずに、こう言いました。
「あれは自分を傷つけたんちゃう。追い出したんや」
そして、そのあとに続けた言葉を、僕はずっと忘れられずにいます。
「右手一本で済んだんやから、あの人は運がええ。……たいていの人間はな、入ってきたもんを、追い出さへん」
「なんでですか」
「気に入ってまうからや」
坊さんはストローから口を離して、初めて僕のほうを真っ直ぐ見ました。
「触ったら、すぐ出る。……見られただけのほうが、遅う効く」
当時の僕は、その意味が分かりませんでした。
八 結界の七日間
その夜、坊さんは兄貴のアパートへ来ました。
護符を扉の内側と窓に貼り、部屋の四隅に塩を盛り、数珠を持って一時間ほど何かを唱えていました。僕は邪魔にならないように、玄関の三和土に立って見ていました。
終わってから、坊さんは兄貴にこう言いました。
「七日や」
「七日、外に出るなってことですか」
「絶対に出るな。誰が来ても、何を言われても、扉を開けるな。目を合わせるな。気配に返事をするな」
兄貴はうなずきました。
「七日耐えたら、助かるんですか」
僕が横から聞きました。
坊さんは、僕のほうを見ませんでした。
「七日で、決まる」
そう言って、帰っていきました。
——いま思えば、あの人は一度も「助かる」とは言わなかったんです。
その七日間は、本当に地獄でした。
僕はバイトの前後に、必ず様子を見に行きました。部屋には入らず、外の階段の踊り場から窓の灯りを確かめて帰る。それだけです。
二日目の夜から、声がしはじめました。
女の声でした。扉の、すぐ向こう側から聞こえるんです。
「ねぇ、開けてよ」
「寒いの」
「寂しいよ」
僕は階段の下で、動けなくなりました。声のするほうを見ましたが、扉の前には誰もいないんです。誰もいないところから、ちゃんと女の声がしている。
三日目には、扉を爪で引っ掻くような音が加わりました。ゆっくり、規則的に、上から下へ。何十回も。
四日目には、ドアノブが回りました。
僕はそれを、階段の途中から見ていました。ゆっくり、根気よく、一定の速さで、ドアノブだけが回っていました。
兄貴は、耳栓をして、布団の中で震えていました。差し入れの弁当も、ほとんど手をつけていませんでした。
五日目、僕が窓の外から声をかけると、兄貴が中から言いました。
「おい」
「はい」
「ワシ、あいつのこと、まだ好きやねん」
僕は、何と答えればいいのか分かりませんでした。
「……あかんことですよ、それ」
「あかんのは分かっとる」
布団のこすれる音がしました。
「けどな、あいつ、あんな声で泣いとんねん」
六日目の夜は、何も起きませんでした。
そして七日目の夜も、何も起きませんでした。
声も、音も、気配も、すべて消えていました。
僕は踊り場で、明け方まで待ちました。何も来ませんでした。空が白んで、雀が鳴きはじめて、僕はようやく、終わったんだと思いました。
九 揃えられた靴
翌日、兄貴は少しだけ笑いました。
「なんか……終わった気がするわ」
久しぶりに二人でラーメンを食べに行きました。兄貴は半分残しました。それでも、僕が入った頃と同じ席で、同じように箸を持っている兄貴を見て、僕は泣きそうになりました。
その三日後です。
兄貴が、消えました。
部屋の鍵は開いていました。財布は机の上、免許証も、通帳も、そのままでした。夏物のシャツが物干しに干したままになっていて、部屋のどこにも争った跡はありませんでした。
玄関に、靴が揃えて置かれていました。
兄貴の靴は、一足も減っていませんでした。仕事用の革靴も、サンダルも、全部ありました。それが、つま先を扉のほうへ向けて、きれいに並べてありました。
几帳面な人ではありませんでした。あの人が靴を揃えているのを、僕は一度も見たことがありません。
警察も動きましたが、手がかりは何ひとつ出ませんでした。
部屋の片づけを手伝ったのは、その一週間後です。
畳の上に、坊さんが盛った塩がまだ残っていました。四隅とも、山が崩れていました。
僕はしゃがんで、それを見ていました。
四つとも、同じ方向へ、細く尾を引いて崩れていたんです。部屋の中心から、外へ向かって。まるで、何かがそこを内側から踏んで通っていったみたいに。
扉のほうを振り返りました。
護符は、剥がれていました。
剥がれた縁が、内側へめくれていました。
僕は指でそれをつまんで、しばらく立っていました。何かがおかしいことは分かるのに、それが何なのかが分からない。そういう状態でした。
その足で坊さんのところへ行って、見たままを話しました。塩が外へ崩れていたこと。護符のめくれ方。
坊さんは、目を閉じました。
そして、何も言いませんでした。
僕は「あの女が入ってきたってことですか」と聞きました。坊さんは目を閉じたままでした。もう一度聞きました。返事はありませんでした。
結局その日、あの人が口をきいたのは、僕が帰り際に玄関で靴を履いているときの、一言だけです。
「七日で決まる、て言うたやろ」
——僕がその意味を本当に理解したのは、四十を過ぎてからでした。
結界は、破られたのではありません。
内側から、開けられたんです。
そして、坊さんがあの部屋に張ったものは、女を入れないためのものではありませんでした。
兄貴を、外へ出さないためのものでした。
あの人は最初から、兄貴が自分から歩いていくことを知っていたんです。だから一度も「助かる」とは言わなかった。
靴が揃っていたのも、そういうことです。
脱ぎ散らかしたまま出ていく人間は、また帰ってくる人間です。
兄貴は、連れていかれたのではありません。
自分で扉を開けて、裸足のまま、歩いていったんです。
十 四十年
あれから四十年あまりが経ちました。
僕は普通に就職して、普通に結婚して、子どもを二人育てて、去年、定年を迎えました。
坊さんは、僕が大学を出た年に亡くなったと聞きました。カフェ・ブラジルは平成の初めに閉まって、いまはコインパーキングになっています。皮肉なものです。あの区画に車を停めるとき、僕はいつも、誰かに見られている気がします。
兄貴のことは、ずっと考えないようにしてきました。
ただ、夏になると、思い出します。
あの生ぬるい風の匂いと、缶コーヒーのプルタブを弾く音と、僕の頭を乱暴に撫でた、あの分厚い手のことです。
終章 その人
去年の夏のことです。
娘がスマートフォンで、旅先の写真を僕に見せてきました。海の近くの、古い商店街の写真でした。
「お父さん、ここ昔よく行ってたって言ってたとこじゃない?」
僕は老眼鏡をかけて、画面を覗き込みました。
娘の後ろに、通行人が何人か写っていました。
その中に、白いワンピースを着た、黒髪の長い女が立っていました。
こちらを向いていました。
僕は、その顔を知っています。
四十年前と、何ひとつ変わっていませんでした。
僕は、娘に何も言えませんでした。
あの夜、駐車場で、あの女が探していたのは店ではありません。
最初に見られたのは、僕でした。
兄貴は、僕と窓のあいだに腕を出して、こう言ったんです。
「そっちちゃう。こっちや」
触ったら、すぐ出る。見られただけのほうが、遅う効く。
四十年です。
四十年かかって、こちらへ来たんです。
娘が、画面をこちらへ差し出したまま、僕の顔を覗き込んでいました。
「お父さん、どうしたん」
僕は老眼鏡を外しました。
そして、娘と画面のあいだに、腕を伸ばしました。
《了》
外から入り込むものの話です。憑依、取り憑き、連れ帰り——人と異物のあいだにあるはずの境が、いつのまにか溶けている。この一篇で境を越えられるのは、ひとりではありません。腕を掴んだ手から入られた者と、ただ見られただけの者。入られたと気づいて追い出せた者と、気に入ってしまって追い出さなかった者。「憑」の型が問うのは、何が入ったかではなく、入ったものをどう扱ったか——その一点です。