序
目を開けると、カーテンが明るかった。
白い明るさではない。橙色だった。朝の色ではない、と分かる。西の窓だ。
夕方なのだ。
起きなければ、と思った。思っただけで、体はどこも動かなかった。痛いところはない。だるいのでもない。ただ、起きる理由が、ひとつも見つからない。
台所で、炊飯器が鳴っている。湯気の匂いがする。新米の匂いだ。毎年この匂いがすると、店の前に袋が積まれて、あの人が腰をさすりながら運んでいた。
お腹は、すいていなかった。
夢を見たかどうか、思い出そうとした。何もなかった。眠っていたあいだのことが、つるりとしている。石鹸を握った手のように、何も引っかからない。
それが、少しも怖くなかった。
襖が開いて、夫が顔を出した。
「きょうも、よく寝たね」
笑っている声だった。
返事をしようとして、そのまま、また目を閉じた。
一
暖簾を、出す。
竿を掛けるのに、左手しか使えなかった。二度、落としかけた。三度目で、布がまっすぐ下りた。
戸に貼ってあった休診の紙を剥がす。一週間と書いた紙だった。四日で戻ってきた。糊の跡が四隅に残って、爪でこすっても取れなかった。
角の家の金木犀が、もう匂わなかった。咲いたのは十日ほど前だ。いつもの年なら、まだしばらくは、角を曲がるたびに甘い匂いがする。花は枝についたまま、色だけが褪せていた。
院の中は、ゆうべ龍之介が磨いたままだった。床に、朝の光が四角く落ちている。
奥から、湯を沸かす音がした。
「おはようございますっ」
波だった。先に来ていた。エプロンをして、急須を持っている。
「早いな」
「目が覚めちゃって」波は湯呑みを二つ並べた。「山の朝って、鳥がうるさいじゃないですか。まだ耳の奥で鳴ってて。体が、まだあっちにいるみたいで」
それから、カウンターの上のコンビニの袋を、京介のほうへ押した。
「おにぎりです。今日は、ちゃんと先生のぶんです。二個とも」
「一個でいい」
「だめです。山で、先生、ほとんど食べてなかったので」
京介は、予約表を開いた。
休診の一週間ぶん、線で消してあった欄が、上から書き直されていた。戻ってきた日から、元どおりに埋まっている。字は、龍之介のものだった。几帳面な、少し右に傾いた字。
——いつ、書いたのだろう。
ゆうべ京介が戻ったとき、龍之介は記録を書いていた。予約表は、閉じてあった。
指で、欄をたどった。
月曜と木曜の朝に、かならず入っている名前が、今週はどこにもなかった。丸田さんだ。週に二回、腰を診せに来る。休んだのは、孫が熱を出した一週だけだった。
来週の欄にも、なかった。消した線の脇に、龍之介の字で小さく「本人より連絡」とだけあった。
「先生」
波が、湯呑みを差し出していた。京介は左手で受け取った。
「丸田さんのところ、行きますよね」
京介は、顔を上げた。
「奥さんのこと。帰ったら聞かせてくださいって、先生、言ってましたよね」
「覚えていたのか」
「覚えてますよ。先生、あのとき、すごく変な顔してました」
「変な顔」
「山で、寝てる人たちを見たときと、同じ顔です」波は言った。「山に行く前なのに」
京介は、茶をひとくち飲んだ。熱かった。左の手のひらに、湯呑みの温度がしみた。右では、分からない温度だった。
昼の予約は、二時からだった。
京介は、棚の上から、往診の鞄を下ろした。
埃が、薄くついていた。最後に往診に出たのがいつだったか、京介は思い出せなかった。
二
丸田米穀店は、都電の通りから一本入ったところにある。
店先に、新米の袋が積まれていた。三十キロの紙袋が、腰の高さまで。丸田さんは、その横で、袋の口を縫っていた。
「先生。休みじゃなかったの」
「戻りました」
「早いね」丸田さんは針を置いた。「……婆さんかい」
「はい」
丸田さんは、少しだけ黙った。それから「上がって」と言った。
店の奥が、住まいになっている。廊下の突き当たりの、西向きの六畳だった。
奥さんは、眠っていた。
布団から出ている顔が、ふっくらとしていた。頬に赤みがある。唇の端が、少しだけ上がっている。いい夢を見ている人の顔だった。
枕元に、籐のかごが置いてあった。編みかけの毛糸が入っている。紺色の、男物の襟巻きらしかった。棒針が二本、刺さったままになっている。
「毎年、雪が来る前に、一本編むんだ」丸田さんが言った。「今年のは、そこから進んでない」
編み目の最後の段は、きちんと揃っていた。そこで、手が止まっていた。
「な。幸せそうな顔してるだろ」
丸田さんが、小声で言った。
「ゆうべ八時に寝て、いま十一時だ。昼に一回起きて、便所に行って、また寝る。夕方に起きて、ちょっと食べて、また寝る。その繰り返しだよ」
「いつからですか」
「先生が休む前からだから……十日くらいか」
京介は、膝をついた。
布団の端から、奥さんの手首を出してもらう。左の三本の指を当てた。
温かい。皮膚に張りがある。
脈は、うわずっていた。
上のほうで細かく打って、深いところまで下りてこない。指をいくら沈めても、底に触れない。
山の、五人と同じだった。
京介は、指を当てたまま、しばらく動かなかった。
街では、三十人がこの脈で押しかけてきた。眠れない、胸が詰まる、と。山では、五人がこの脈で起きてこなかった。
いま、それが、街で眠っている。
懐に、布でくるんだ金龍鍼がある。京介は、手を伸ばさなかった。
この体は、人ではないものについて、何も喋っていない。喋っているのは、ただ、ついていけていない、ということだけだ。
波が、反対側から奥さんの背中に手を入れていた。しばらくそうしていて、そっと抜いた。
目が合う。波は、小さく首を振った。
何も、来ない。
「先生、これ、病気かね」丸田さんが言った。「医者にも連れてったんだよ。血も取った。何ともないって。年だから眠いんでしょうって」
京介は、答えなかった。
「本人に聞いてもね、どこも悪くないって言うんだ。よく寝たって、にこにこしてる。困ってないんだよ、ちっとも」
丸田さんは、布団の上の妻の顔を見ていた。
「困ってないのが、いちばん困るんだよ、先生」
三
打った。
左手で、一本ずつ。
鍼管に鍼を入れ、皮膚に立てて、頭を叩く。右手が使えないので、鍼管を支える指と、叩く指が、同じ手になる。一本打つたびに、持ち替える。刺す深さを確かめるたびに、指を当て直す。
右手なら、ひと呼吸で済むことだった。
波が、隣でもぐさを捻っていた。
「これくらいですか」
「もう少し、小さく」
「これくらい」
「それでいい」
米粒の半分ほどに捻ったもぐさを、波が指先で並べていく。京介が線香で火をつける。煙が細く立って、奥さんの皮膚の上で、ふっと消える。燃え切る手前で、波が指で押さえて取る。
熱が、入っていく。
部屋に、もぐさの匂いが薄く広がった。枯れ草を焚いたような、甘い匂いだ。丸田さんが、鼻をひくつかせて、少しだけ笑った。
「先生んとこの匂いだ」
波が、もぐさを捻りながら、京介の手元をちらりと見た。
「先生、左で打つと、顔が怖いです」
「そうか」
「眉間に、線が三本あります。右のときは、一本です」
丸田さんが、声を出さずに肩を揺らした。京介は、眉間の力を抜こうとして、抜けなかった。
京介は、脈を取り直した。
下りた。
ほんの少しだ。指一本ぶん、深いところに、底がかすった気がした。
もう一本、打った。また脈を取った。また、少しだけ下りる。
それを、繰り返した。
窓の外の生け垣に、褪せた金木犀の花が、枝についたまま残っていた。西日になる前の、白い光だった。花はひとつも、落ちていなかった。
一時間が過ぎた。
奥さんの脈は、最初よりは落ち着いていた。頬の赤みは、変わらない。呼吸も、変わらない。
眠りは、少しも浅くならなかった。
京介は、手を止めた。
打てば、脈は下りる。下りた分だけ、この人の体は楽になっているはずだ。それは確かだった。だが、それで目を覚ますわけではない。脈が下りても、眠りの深さは、別のところで決まっている。
——届かない。
鍼は、体には届いている。この人がどこかへ沈んでいく、その沈み方にだけ、届いていない。
鍼を抜いていく。左手で、一本ずつ。
最後の一本を抜いたときだった。
奥さんの唇が、動いた。
「……せんせい」
丸田さんが、身を乗り出した。
目は、閉じたままだった。眠ったまま、口だけが動いていた。
「山は、どうでしたか」
部屋の中が、静かになった。
丸田さんが、京介を見た。「山?」
京介は、答えなかった。
山へ行ったことは、誰にも言っていない。休診の紙にも、理由は書かなかった。知っているのは、波と、龍之介だけだ。
奥さんは、もう何も言わなかった。
幸せそうな顔で、眠っていた。
四
龍之介は、二時ちょうどに来た。
「おはようございます」
昼を過ぎても、この子はそう言う。
午後の予約を、三人でこなした。京介が左手で打ち、龍之介が記録を書き、波が患者を送り出す。いつもの半分の速さで、いつもと同じ数をこなす。そのぶん、待合が詰まった。誰も文句を言わなかった。常連たちは、京介の右手を見て、何も聞かずに、少しだけ長く待った。
四時の枠の、七十を過ぎた女性が、うつ伏せのまま言った。
「先生、休んでたあいだにね、うちの人、よく寝るようになったのよ」
左手が、止まった。
「前は夜中に三回は起きてたのに。いまは朝まで一回も起きないの。いびきもかかないで、にこにこして寝てる。長生きするわね、あれは」
笑い声だった。京介は、鍼を置き直した。
「……ご主人、夢の話は、されますか」
「夢?」女性は、少し考えた。「そういえば、しないわね。前はうるさいくらい話してたのに」
龍之介のペンが、記録の上で一度だけ止まって、また動いた。
最後の患者が帰ったのは、七時を回っていた。
龍之介が、デスクで記録をまとめていた。波は、待合のスリッパを揃えてから、「お先に」と言って帰っていった。
院の中に、ペンの音だけが残った。
京介は、施術室の片づけをしながら、背中越しに言った。
「丸田さんの奥さんのところへ、往診に行ってきた」
「はい。波さんから聞きました」
「眠ったまま、喋った」
ペンの音が、止まった。
「何を、ですか」
「山は、どうでしたか、と」
京介は、振り返らなかった。棚にタオルを積んでいた。一枚、二枚。
ゆうべ、同じ言葉を聞いた。この部屋で。鞄の持ち手に手をかけたまま、目を合わせずに、この子が言った。
三枚目を積んだ。
返事が、来なかった。
四枚目を手に取ったところで、背中の向こうで、椅子がきしんだ。
「……疲れてるんじゃないですか」
龍之介の声だった。いつもの声だった。平らで、少し低い。
ただ、半拍、遅かった。
この子の答えは、いつも早い。人が言い終わる前に、もう次の仮説を用意している子だ。
「そうかもしれない」と京介は言った。
「山から戻ったばかりですし。先生、今日、ずっと左手で打ってましたから。肩、張ってますよ」
「ああ」
「僕、今日はこれで」
「ああ」
龍之介が鞄を取って、出ていった。戸の閉まる音が、いつもより静かだった。
京介は、五枚目のタオルを積んだ。
電話が鳴った。
波が取って、すぐにこちらへ受話器を差し出した。
「士郎さんです」
耳に当てると、店の音が聞こえた。カップの触れ合う音。低いラジオ。
「京介か」
「ああ」
「牧野さんが、来た」
五
士郎の店に着いたのは、八時を回ったころだった。
閉店の札が、もう下がっていた。戸を押すと、鍵はかかっていなかった。
士郎は、何も聞かずにコーヒーを落とした。カウンターに置くとき、カップの取っ手を、京介の左に向けた。
京介は、それを見た。士郎は、見ていなかった。
「昼過ぎに来た。そこに座った」
カウンターのいちばん端の席だった。
「コーヒー一杯で、二時間いた。何も喋らんかった。……まあ、それはいつもだけどな」
「様子は」
「痩せた。前より、また」士郎は布巾をたたんだ。「それと、ポケットを叩かなくなった」
京介は、カップに伸ばした手を止めた。
牧野茂は、上着のポケットに、白い容器を入れていた。四つ。それから、三つ。座るたびに、上からそっと叩いて、あるのを確かめる癖があった。
「一度も?」
「一度も。膨らんでもいなかった」
士郎は、カウンターの端を顎で示した。
「手を、そこに置いてた。こうやって」
士郎は自分の両手を、カウンターの上で、軽く丸めてみせた。掌を上に向けて、指を少し曲げて。何かを包んでいるような形だった。中には、何もない。
「二時間、ずっとだ。コーヒーにも触らんで」
京介は、その形を見ていた。容器ひとつぶんの、丸みだった。
三つとも、もう、誰かの手に渡ったのだ。
「何か、言っていたか」
士郎は、少し考えた。思い出そうとしている顔だった。
「帰りぎわに、聞かれた。木曜の人は、今日は来ないんですか、って」
京介は、顔を上げた。
「化粧の濃い人だよ。お前んとこにも通ってる。先週の木曜、あの人がここに来てな。牧野さんと、たまたま隣になった。話し込んでたよ。あの人が、旦那の話をしてた。三年前に、出ていったって」
「そのとき、牧野さんのポケットは」
「膨らんでた」
士郎は、京介の前のカップを見た。まだ、半分も減っていなかった。
「俺は、あの人が何を渡したのか、見てない」
京介は、黙っていた。
「見てないが、今日の牧野さんは、何か渡し終わった人の顔をしてた。店に入ってきたとき、あの人を、探してた。……来ないと分かったら、代金を置いて、釣りも取らずに出ていった」
京介は、立ち上がった。
「住所、分かるか」
「カルテにあるだろ。お前のとこの患者だ」
戸に手をかけたところで、士郎が言った。
「京介」
振り返った。士郎は、カウンターの向こうで、カップを洗っていた。こちらを見ていなかった。
「手、冷やすなよ」
京介は、右手をポケットの奥に入れた。
コーヒーは、半分残った。
六
木曜の人は、隣の駅の、古いマンションの四階に住んでいた。
夜の九時を回っていた。インターホンを押すと、少し間があって、戸が開いた。
化粧をしていた。家の中で、この時間に。口紅が、院で見るときと同じ色だった。
「……先生?」
「夜分に、すみません」
「どうしたんですか。私、木曜、行きますよ。まだ月曜ですけど」
笑った。笑うと、目尻の粉が、少しよれた。
上がってください、と言われた。京介は、たたきで止まった。
奥のテーブルが、見えた。
白い、丸い、掌にのるくらいの容器が、テーブルの真ん中に置いてあった。花瓶もない。新聞もない。何もないテーブルの真ん中に、それだけがあった。
「それは」
「あ、これ」彼女は、容器を手に取った。大事そうに、両手で。「いただいたんです。膝に、いいって」
「牧野さんから」
「先生、牧野さんのこと、ご存じなんですか」彼女の顔が明るくなった。「いい人ですよね。奥さんを亡くされてて。私の話、ずっと聞いてくださって」
京介は、言葉を選んだ。
「それを、預からせてもらえませんか」
「え?」
「捨てはしません。しばらく、私のところに置かせてください」
彼女は、容器を胸の前に持ったまま、京介を見ていた。
「どうしてですか」
答えられなかった。答えは、ある。だが、それを言えば、この人の中で、牧野茂という人が壊れる。この人の話を聞いてくれる人が、一人減る。
「ごめんなさい」彼女は言った。やわらかい声だった。「先生のこと、信用してないわけじゃないんです。……ただ、これは、いいんです」
「……」
「いい人なんです」
同じ言葉を、もう一度言った。自分に言い聞かせる声ではなかった。京介に、分かってほしい、という声だった。
「今度、紹介してくれるって言ってました。もっと、ちゃんと話を聞いてくれる人がいるって。私みたいな人の話を、ずっと聞いてくれる人が」
京介は、たたきに立ったまま、その人の手首を見た。
「少しだけ、脈を、いいですか」
「ここで? いいですよ」
差し出された手首に、左の指を当てた。
上のほうで、少しうわずっている。この街の誰もが、いまそうであるように。それだけだった。底は、ちゃんとある。深いところで、この人の脈は、この人の声で喋っていた。
まだ、抜かれていない。
「……ありがとうございます。木曜、お待ちしています」
「はい。先生、夜道、気をつけて」
戸が閉まった。
容器は、あの人の胸の前にあったまま、閉まった戸の向こうへ消えた。
廊下の蛍光灯が、ちかちかと瞬いていた。
エレベーターは、使わなかった。四階ぶんの階段を、左手で手すりをつかみながら下りた。どの階の戸も閉まっていて、どの戸の向こうからも、テレビの音ひとつ聞こえなかった。
七
帰りは、地下鉄に乗った。
夜の車内は、半分ほど埋まっていた。
京介は、吊り革に左手でつかまって、座席を見下ろしていた。
眠っている。
窓にもたれた学生も、膝に鞄を抱えた勤め帰りの女も、向かいの老人も。駅に着いて、扉が開いて、冷たい風が入っても、誰も目を開けない。車内放送が次の駅の名前を言う。誰も、顔を上げない。
どの顔も、穏やかだった。
ひとつ手前の駅で、向かいの老人が、はっと目を覚ました。窓の外を見て、慌てて立ち上がり、降りていった。降りたあと、ホームで立ち止まって、自分がどこにいるのか確かめるように、あたりを見回していた。
電車が動き出した。老人は、まだそこに立っていた。
京介は、次の駅で降りた。
駅の裏へ回った。
終電には、まだ間がある。高架の下の、自転車置き場の脇。人の通らない一角。前に、ここで膝をついた。
京介は、同じ場所にしゃがんだ。
義眼を外す。
街が、裏返る。人の輪郭に色が滲み、看板の光に層ができる。遠くを歩いていく勤め帰りの男の肩に、灰色がかった薄い色が張りついていた。すれ違う女も、同じ薄さだった。
左の掌を、アスファルトについた。
視えた。
光の筋が、足の下を通っている。
——細い。
前にも、細いと思った。あのときは、それがどれだけ細いのか、比べるものを知らなかった。山で、あの川を見るまでは。
いまは、分かる。
細い、のではない。細っている。
京介は、筋の縁を目で追った。
あった。
筋の両側に、うっすらと、白っぽい帯ができはじめていた。山で見たほど広くはない。幅にして、指二本ぶん。だが、同じものだった。水の引いたあとの、乾いた川床の色。
前に来たとき、これはなかった。
あれから、まだひと月も経っていない。
京介は、掌をついたまま、しばらく動けなかった。
上が痩せれば、先はもっと痩せる。山で、そう思った。思っただけで、どこか遠い話のように聞いていた。
遠くなかった。
ここが、その先だった。
丸田さんの奥さんは、この筋の、どこかの枝の上で眠っている。木曜の人は、この筋の上で、容器を胸に抱いている。
右手を、ポケットから出した。
アスファルトに、置いてみる。
冷たいことは分かる。ざらついた粒が、皮膚に当たっていることも。
それ以上は、何も来なかった。
立ち上がった。
膝を払って、義眼をはめた。視界が半分に戻る。高架の上を、最終の一本前の電車が通っていった。窓の明かりの中で、乗客の頭が、みな同じ角度に傾いていた。
歩き出してから、気づいた。
足の裏が、前ほど、熱くなかった。
八
三日目の朝、丸田さんから電話があった。
「起きないんだ」
丸田さんの声では、なかった。丸田さんの声から、いつもの丸みが抜けていた。
「ゆうべから、一回も起きてない。便所にも。呼んでも、揺すっても、にこにこしてるだけで、目を開けない」
院の戸に、午前休診の紙を貼った。波が、何も言わずに鞄を持った。
丸田米穀店のシャッターは、半分しか上がっていなかった。店先の新米の袋が、三日前と同じ高さのまま積まれていた。口を縫いかけた袋が一つ、針をつけたまま、横に倒れていた。
廊下を通るとき、台所が見えた。炊飯器の蓋が、開いたままになっていた。中は、空だった。内釜の底が、乾いていた。
丸田さんは、靴下を片方しか履いていなかった。京介が気づいたことに、丸田さんは気づかなかった。
西向きの六畳は、カーテンが閉まっていた。
奥さんは、眠っていた。
同じ顔だった。頬に赤みがあって、唇の端が上がっている。呼吸はゆっくりで、乱れていない。額に手を当てると、温かい。枕元のかごの毛糸は、三日前と同じ段で止まっていた。
どこも、悪くない。
脈を取った。
うわずっている。三日前より、さらに上のほうで打っている。指を沈めても、どこまでも底に触れない。
遠い。
この人の体は、ここにある。温かくて、ふっくらとしていて、息をしている。それなのに、脈だけが、上へ、遠くへ、行こうとしている。
京介は、懐から布の包みを出した。
ほどく。金龍鍼が、薄暗い部屋で、鈍く光った。
丸田さんが、それを見た。何も聞かなかった。
——中へ、入れるしかない。
外から打っても、届かない。三日、打った。届かなかった。この人がどこへ沈んでいくのか、中へ入って、確かめるしかない。
京介は、金龍鍼を左の掌に寝かせた。
右の掌を、上からかぶせる。
かぶせた右が、支えにならない。乗っているだけだ。指を閉じようとする。親指と小指が、鍼の両端を探して、外へ滑る。
もう一度。
左の指で、右の指を一本ずつ折り曲げて、鍼の上に置いていく。置いた指が、置いたそばから、ゆるんで開く。
額の前へ、上げられない。
上げれば、落ちる。山で、落とした。あのときは、横に拾ってくれる人がいた。
京介は、両手を膝の上に下ろした。
「先生」
波が、隣に膝をついていた。
「私が、持ちます」
波の両手が、京介の右手の下に、差し入れられようとしていた。京介の右手ごと、鍼を包むつもりだった。
京介は、その手首を、左手で押さえた。
「だめだ」
「でも」
「これは、持たせられない」
九
波の手首から、指を離した。
波は、何も言わずに手を引いた。膝の上で、自分の両手を握っていた。
京介は、金龍鍼を左手に持ったまま、奥さんの首の付け根へ、かざした。
静かだった。
冷えない。曇らない。匂いもしない。生きた人の首の上で、金はただの金として、京介の指の温度のまま、そこにあった。
鍼を下ろした。
左の指を、じかに、首の付け根に当てた。
温かい。
開いている。出ていくものと、入ってくるものが、ふつうに行き来している。どこも押し開かれていない。何も吸い出されていない。
安藤洋子とは、違う。牧野茂とも、戸倉静江とも、岩井さんとも違う。
この人は、抜かれていない。
誰にも、何も、奪われていない。
京介は、指を当てたまま、その奥を探った。入らない。入れない。指の腹で、外から、そっと触れるだけだ。
握って離さないものも、なかった。
この人は、何も、握りしめていない。残していくものに、しがみついていない。怒っていない。恨んでいない。心配すら、していない。
ただ、ゆっくりと、手を離しかけている。
京介は、指を離した。
——還す相手が、いない。
この人は、帰り道を忘れていない。迷ってもいない。ただ、ここから、遠ざかっていく。
依代は、要らなかったのだ。組めなかったのではない。最初から、組むものではなかった。
京介は、金龍鍼を布に包んだ。懐に戻した。
それから、鞄を開けた。
ディスポの、いちばん細いのを、箱ごと出した。
「波」
「はい」
「もぐさを」
波が、顔を上げた。それから、黙って袖をまくった。
打った。
左手で、一本ずつ。脈を取る。打つ。脈を取る。少しだけ、下りる。また打つ。
昼になった。丸田さんが、盆に握り飯を載せて持ってきた。京介は、手をつけなかった。波が、ひとつだけ食べた。
夕方になった。カーテンの隙間が、橙色になった。
夜になった。
丸田さんは、部屋の隅に座って、ずっと妻の顔を見ていた。ときどき、うとうとして、はっと目を開けた。
打つたびに、脈は少しだけ下りる。下りて、しばらくすると、また上へ戻っていこうとする。戻りきる前に、次の一本を打つ。それだけのことを、何百回も、半分の速さで。
脈を取るたびに、京介は、往診票の裏に時刻を書いた。左手で。下りる、戻る、とだけ。
肩が、上がらなくなった。左の指先が、しびれてきた。鍼管を支える指と、叩く指の区別が、つかなくなってきた。
この人は、困っていない。困っていない人を、呼び戻す理由が、どこにあるのか。
京介は、それを考えなかった。
鍼灸師だった。脈が上がっていれば、下ろす。それ以外のやり方を、知らない。
隅で、男が一人、眠らずに座っている。
窓の外が、白みはじめた。
京介の指の下で、脈が、下りた。
ことん、と。
底に、触れた。
奥さんが、目を開けた。
天井を見て、それから、ゆっくりと首を回して、隅の丸田さんを見つけた。
「……あんた」
丸田さんが、腰を浮かせた。
「お腹、すいた」
丸田さんは、口を開けたまま、しばらく動かなかった。
それから、何か言おうとして、言えずに、立ち上がった。
台所へ行く足音が、廊下を遠ざかっていった。
十
丸田さんの家を出たのは、七時を回ったころだった。
奥さんは、布団の上に起き上がって、炊きたての新米を茶碗に半分食べた。おいしい、と言った。今年のは甘いね、と。それから、また横になって、すぐに眠った。
今度の眠りは、浅かった。寝返りを打っていた。
丸田さんは、玄関まで送ってきて、何度も頭を下げた。下げるたびに、何か言おうとして、言葉にならなかった。
「また、夕方に来ます」
「……頼む」
通りに出ると、朝の空気がひんやりしていた。
金木犀の匂いは、もう、どこからもしなかった。
波が、隣を歩いていた。目の下が、少し青い。一晩じゅうもぐさを捻っていた指先が、黒く汚れていた。
京介は、鞄から往診票を出した。
裏が、左手の字で埋まっていた。終わりのほうは、自分でも読めなかった。
「先生」
「なんだ」
「あれ、治ったんですか」
京介は、少し歩いてから、答えた。
「戻っただけだ」
波は、黙っていた。
「また、眠るかもしれない。今夜かもしれないし、来月かもしれない」
波は、前を向いたまま、うなずいた。
「じゃあ、また、行きますね。夕方。私も」
明るい声だった。選んでいる声だった。
交差点で、波と別れた。着替えてから来ます、と波は言った。京介は、一人で院へ歩いた。
院の前に、人が立っていた。
龍之介だった。
暖簾は、まだ出ていない。戸の前で、鞄を両手で持って、まっすぐ立っていた。いつから待っていたのか、耳の先が赤かった。
「おはようございます」
「……早いな」
「先生」
龍之介は、京介の顔を見た。
目を、合わせていた。山から戻った夜から、初めてだった。
「しばらく、休ませてください」
京介は、何も言わなかった。
「辞めるわけじゃありません。……少し、考えたいことがあって」
「そうか」
「理由は、聞かないでください」
「聞かない」
龍之介の眉が、わずかに動いた。何かを、待っていた顔だった。引き止められるのを、か。聞かれるのを、か。それとも、そのどちらでもないものを。
京介は、待たなかった。
「予約表、書き直してくれて、助かった」
龍之介の口が、少し開いた。それから、閉じた。
「……失礼します」
頭を下げて、歩いていった。角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。
京介は、戸を開けて、中に入った。
誰もいない院は、四日ぶりに戻った夜よりも、もっと広かった。
予約表を開いた。今日の午後の欄に、龍之介の右に傾いた字で、あの人の名前があった。木曜の、三時。横に、同じ字で、小さく「お連れ様あり」。
京介は、予約表を閉じた。
奥の棚の前に立った。
いちばん下の引き出しに、手をかけた。
開けた。
桐箱が、あった。色の褪せた紐が、かけたままになっている。埃は、積もっていなかった。
京介は、それを見ていた。
手は、伸ばさなかった。
伸ばせば、鳴る。分かっている。分かっていて、開けた。いままでは、それすらしなかった。
しばらくそうしていて、引き出しを、閉めた。
右手を、ポケットに入れた。
左手で、暖簾を持った。
戸を開けると、朝の光が、たたきに四角く落ちた。
外で、雀が鳴いていた。
序
目を開けると、カーテンが明るかった。
白い明るさではない。橙色だった。朝の色ではない、と分かる。西の窓だ。
夕方なのだ。
起きなければ、と思った。思っただけで、体はどこも動かなかった。痛いところはない。だるいのでもない。ただ、起きる理由が、ひとつも見つからない。
台所で、炊飯器が鳴っている。湯気の匂いがする。新米の匂いだ。毎年この匂いがすると、店の前に袋が積まれて、あの人が腰をさすりながら運んでいた。
お腹は、すいていなかった。
夢を見たかどうか、思い出そうとした。何もなかった。眠っていたあいだのことが、つるりとしている。石鹸を握った手のように、何も引っかからない。
それが、少しも怖くなかった。
襖が開いて、夫が顔を出した。
「きょうも、よく寝たね」
笑っている声だった。
返事をしようとして、そのまま、また目を閉じた。
一
暖簾を、出す。
竿を掛けるのに、左手しか使えなかった。二度、落としかけた。三度目で、布がまっすぐ下りた。
戸に貼ってあった休診の紙を剥がす。一週間と書いた紙だった。四日で戻ってきた。糊の跡が四隅に残って、爪でこすっても取れなかった。
角の家の金木犀が、もう匂わなかった。咲いたのは十日ほど前だ。いつもの年なら、まだしばらくは、角を曲がるたびに甘い匂いがする。花は枝についたまま、色だけが褪せていた。
院の中は、ゆうべ龍之介が磨いたままだった。床に、朝の光が四角く落ちている。
奥から、湯を沸かす音がした。
「おはようございますっ」
波だった。先に来ていた。エプロンをして、急須を持っている。
「早いな」
「目が覚めちゃって」波は湯呑みを二つ並べた。「山の朝って、鳥がうるさいじゃないですか。まだ耳の奥で鳴ってて。体が、まだあっちにいるみたいで」
それから、カウンターの上のコンビニの袋を、京介のほうへ押した。
「おにぎりです。今日は、ちゃんと先生のぶんです。二個とも」
「一個でいい」
「だめです。山で、先生、ほとんど食べてなかったので」
京介は、予約表を開いた。
休診の一週間ぶん、線で消してあった欄が、上から書き直されていた。戻ってきた日から、元どおりに埋まっている。字は、龍之介のものだった。几帳面な、少し右に傾いた字。
——いつ、書いたのだろう。
ゆうべ京介が戻ったとき、龍之介は記録を書いていた。予約表は、閉じてあった。
指で、欄をたどった。
月曜と木曜の朝に、かならず入っている名前が、今週はどこにもなかった。丸田さんだ。週に二回、腰を診せに来る。休んだのは、孫が熱を出した一週だけだった。
来週の欄にも、なかった。消した線の脇に、龍之介の字で小さく「本人より連絡」とだけあった。
「先生」
波が、湯呑みを差し出していた。京介は左手で受け取った。
「丸田さんのところ、行きますよね」
京介は、顔を上げた。
「奥さんのこと。帰ったら聞かせてくださいって、先生、言ってましたよね」
「覚えていたのか」
「覚えてますよ。先生、あのとき、すごく変な顔してました」
「変な顔」
「山で、寝てる人たちを見たときと、同じ顔です」波は言った。「山に行く前なのに」
京介は、茶をひとくち飲んだ。熱かった。左の手のひらに、湯呑みの温度がしみた。右では、分からない温度だった。
昼の予約は、二時からだった。
京介は、棚の上から、往診の鞄を下ろした。
埃が、薄くついていた。最後に往診に出たのがいつだったか、京介は思い出せなかった。
二
丸田米穀店は、都電の通りから一本入ったところにある。
店先に、新米の袋が積まれていた。三十キロの紙袋が、腰の高さまで。丸田さんは、その横で、袋の口を縫っていた。
「先生。休みじゃなかったの」
「戻りました」
「早いね」丸田さんは針を置いた。「……婆さんかい」
「はい」
丸田さんは、少しだけ黙った。それから「上がって」と言った。
店の奥が、住まいになっている。廊下の突き当たりの、西向きの六畳だった。
奥さんは、眠っていた。
布団から出ている顔が、ふっくらとしていた。頬に赤みがある。唇の端が、少しだけ上がっている。いい夢を見ている人の顔だった。
枕元に、籐のかごが置いてあった。編みかけの毛糸が入っている。紺色の、男物の襟巻きらしかった。棒針が二本、刺さったままになっている。
「毎年、雪が来る前に、一本編むんだ」丸田さんが言った。「今年のは、そこから進んでない」
編み目の最後の段は、きちんと揃っていた。そこで、手が止まっていた。
「な。幸せそうな顔してるだろ」
丸田さんが、小声で言った。
「ゆうべ八時に寝て、いま十一時だ。昼に一回起きて、便所に行って、また寝る。夕方に起きて、ちょっと食べて、また寝る。その繰り返しだよ」
「いつからですか」
「先生が休む前からだから……十日くらいか」
京介は、膝をついた。
布団の端から、奥さんの手首を出してもらう。左の三本の指を当てた。
温かい。皮膚に張りがある。
脈は、うわずっていた。
上のほうで細かく打って、深いところまで下りてこない。指をいくら沈めても、底に触れない。
山の、五人と同じだった。
京介は、指を当てたまま、しばらく動かなかった。
街では、三十人がこの脈で押しかけてきた。眠れない、胸が詰まる、と。山では、五人がこの脈で起きてこなかった。
いま、それが、街で眠っている。
懐に、布でくるんだ金龍鍼がある。京介は、手を伸ばさなかった。
この体は、人ではないものについて、何も喋っていない。喋っているのは、ただ、ついていけていない、ということだけだ。
波が、反対側から奥さんの背中に手を入れていた。しばらくそうしていて、そっと抜いた。
目が合う。波は、小さく首を振った。
何も、来ない。
「先生、これ、病気かね」丸田さんが言った。「医者にも連れてったんだよ。血も取った。何ともないって。年だから眠いんでしょうって」
京介は、答えなかった。
「本人に聞いてもね、どこも悪くないって言うんだ。よく寝たって、にこにこしてる。困ってないんだよ、ちっとも」
丸田さんは、布団の上の妻の顔を見ていた。
「困ってないのが、いちばん困るんだよ、先生」
三
打った。
左手で、一本ずつ。
鍼管に鍼を入れ、皮膚に立てて、頭を叩く。右手が使えないので、鍼管を支える指と、叩く指が、同じ手になる。一本打つたびに、持ち替える。刺す深さを確かめるたびに、指を当て直す。
右手なら、ひと呼吸で済むことだった。
波が、隣でもぐさを捻っていた。
「これくらいですか」
「もう少し、小さく」
「これくらい」
「それでいい」
米粒の半分ほどに捻ったもぐさを、波が指先で並べていく。京介が線香で火をつける。煙が細く立って、奥さんの皮膚の上で、ふっと消える。燃え切る手前で、波が指で押さえて取る。
熱が、入っていく。
部屋に、もぐさの匂いが薄く広がった。枯れ草を焚いたような、甘い匂いだ。丸田さんが、鼻をひくつかせて、少しだけ笑った。
「先生んとこの匂いだ」
波が、もぐさを捻りながら、京介の手元をちらりと見た。
「先生、左で打つと、顔が怖いです」
「そうか」
「眉間に、線が三本あります。右のときは、一本です」
丸田さんが、声を出さずに肩を揺らした。京介は、眉間の力を抜こうとして、抜けなかった。
京介は、脈を取り直した。
下りた。
ほんの少しだ。指一本ぶん、深いところに、底がかすった気がした。
もう一本、打った。また脈を取った。また、少しだけ下りる。
それを、繰り返した。
窓の外の生け垣に、褪せた金木犀の花が、枝についたまま残っていた。西日になる前の、白い光だった。花はひとつも、落ちていなかった。
一時間が過ぎた。
奥さんの脈は、最初よりは落ち着いていた。頬の赤みは、変わらない。呼吸も、変わらない。
眠りは、少しも浅くならなかった。
京介は、手を止めた。
打てば、脈は下りる。下りた分だけ、この人の体は楽になっているはずだ。それは確かだった。だが、それで目を覚ますわけではない。脈が下りても、眠りの深さは、別のところで決まっている。
——届かない。
鍼は、体には届いている。この人がどこかへ沈んでいく、その沈み方にだけ、届いていない。
鍼を抜いていく。左手で、一本ずつ。
最後の一本を抜いたときだった。
奥さんの唇が、動いた。
「……せんせい」
丸田さんが、身を乗り出した。
目は、閉じたままだった。眠ったまま、口だけが動いていた。
「山は、どうでしたか」
部屋の中が、静かになった。
丸田さんが、京介を見た。「山?」
京介は、答えなかった。
山へ行ったことは、誰にも言っていない。休診の紙にも、理由は書かなかった。知っているのは、波と、龍之介だけだ。
奥さんは、もう何も言わなかった。
幸せそうな顔で、眠っていた。
四
龍之介は、二時ちょうどに来た。
「おはようございます」
昼を過ぎても、この子はそう言う。
午後の予約を、三人でこなした。京介が左手で打ち、龍之介が記録を書き、波が患者を送り出す。いつもの半分の速さで、いつもと同じ数をこなす。そのぶん、待合が詰まった。誰も文句を言わなかった。常連たちは、京介の右手を見て、何も聞かずに、少しだけ長く待った。
四時の枠の、七十を過ぎた女性が、うつ伏せのまま言った。
「先生、休んでたあいだにね、うちの人、よく寝るようになったのよ」
左手が、止まった。
「前は夜中に三回は起きてたのに。いまは朝まで一回も起きないの。いびきもかかないで、にこにこして寝てる。長生きするわね、あれは」
笑い声だった。京介は、鍼を置き直した。
「……ご主人、夢の話は、されますか」
「夢?」女性は、少し考えた。「そういえば、しないわね。前はうるさいくらい話してたのに」
龍之介のペンが、記録の上で一度だけ止まって、また動いた。
最後の患者が帰ったのは、七時を回っていた。
龍之介が、デスクで記録をまとめていた。波は、待合のスリッパを揃えてから、「お先に」と言って帰っていった。
院の中に、ペンの音だけが残った。
京介は、施術室の片づけをしながら、背中越しに言った。
「丸田さんの奥さんのところへ、往診に行ってきた」
「はい。波さんから聞きました」
「眠ったまま、喋った」
ペンの音が、止まった。
「何を、ですか」
「山は、どうでしたか、と」
京介は、振り返らなかった。棚にタオルを積んでいた。一枚、二枚。
ゆうべ、同じ言葉を聞いた。この部屋で。鞄の持ち手に手をかけたまま、目を合わせずに、この子が言った。
三枚目を積んだ。
返事が、来なかった。
四枚目を手に取ったところで、背中の向こうで、椅子がきしんだ。
「……疲れてるんじゃないですか」
龍之介の声だった。いつもの声だった。平らで、少し低い。
ただ、半拍、遅かった。
この子の答えは、いつも早い。人が言い終わる前に、もう次の仮説を用意している子だ。
「そうかもしれない」と京介は言った。
「山から戻ったばかりですし。先生、今日、ずっと左手で打ってましたから。肩、張ってますよ」
「ああ」
「僕、今日はこれで」
「ああ」
龍之介が鞄を取って、出ていった。戸の閉まる音が、いつもより静かだった。
京介は、五枚目のタオルを積んだ。
電話が鳴った。
波が取って、すぐにこちらへ受話器を差し出した。
「士郎さんです」
耳に当てると、店の音が聞こえた。カップの触れ合う音。低いラジオ。
「京介か」
「ああ」
「牧野さんが、来た」
五
士郎の店に着いたのは、八時を回ったころだった。
閉店の札が、もう下がっていた。戸を押すと、鍵はかかっていなかった。
士郎は、何も聞かずにコーヒーを落とした。カウンターに置くとき、カップの取っ手を、京介の左に向けた。
京介は、それを見た。士郎は、見ていなかった。
「昼過ぎに来た。そこに座った」
カウンターのいちばん端の席だった。
「コーヒー一杯で、二時間いた。何も喋らんかった。……まあ、それはいつもだけどな」
「様子は」
「痩せた。前より、また」士郎は布巾をたたんだ。「それと、ポケットを叩かなくなった」
京介は、カップに伸ばした手を止めた。
牧野茂は、上着のポケットに、白い容器を入れていた。四つ。それから、三つ。座るたびに、上からそっと叩いて、あるのを確かめる癖があった。
「一度も?」
「一度も。膨らんでもいなかった」
士郎は、カウンターの端を顎で示した。
「手を、そこに置いてた。こうやって」
士郎は自分の両手を、カウンターの上で、軽く丸めてみせた。掌を上に向けて、指を少し曲げて。何かを包んでいるような形だった。中には、何もない。
「二時間、ずっとだ。コーヒーにも触らんで」
京介は、その形を見ていた。容器ひとつぶんの、丸みだった。
三つとも、もう、誰かの手に渡ったのだ。
「何か、言っていたか」
士郎は、少し考えた。思い出そうとしている顔だった。
「帰りぎわに、聞かれた。木曜の人は、今日は来ないんですか、って」
京介は、顔を上げた。
「化粧の濃い人だよ。お前んとこにも通ってる。先週の木曜、あの人がここに来てな。牧野さんと、たまたま隣になった。話し込んでたよ。あの人が、旦那の話をしてた。三年前に、出ていったって」
「そのとき、牧野さんのポケットは」
「膨らんでた」
士郎は、京介の前のカップを見た。まだ、半分も減っていなかった。
「俺は、あの人が何を渡したのか、見てない」
京介は、黙っていた。
「見てないが、今日の牧野さんは、何か渡し終わった人の顔をしてた。店に入ってきたとき、あの人を、探してた。……来ないと分かったら、代金を置いて、釣りも取らずに出ていった」
京介は、立ち上がった。
「住所、分かるか」
「カルテにあるだろ。お前のとこの患者だ」
戸に手をかけたところで、士郎が言った。
「京介」
振り返った。士郎は、カウンターの向こうで、カップを洗っていた。こちらを見ていなかった。
「手、冷やすなよ」
京介は、右手をポケットの奥に入れた。
コーヒーは、半分残った。
六
木曜の人は、隣の駅の、古いマンションの四階に住んでいた。
夜の九時を回っていた。インターホンを押すと、少し間があって、戸が開いた。
化粧をしていた。家の中で、この時間に。口紅が、院で見るときと同じ色だった。
「……先生?」
「夜分に、すみません」
「どうしたんですか。私、木曜、行きますよ。まだ月曜ですけど」
笑った。笑うと、目尻の粉が、少しよれた。
上がってください、と言われた。京介は、たたきで止まった。
奥のテーブルが、見えた。
白い、丸い、掌にのるくらいの容器が、テーブルの真ん中に置いてあった。花瓶もない。新聞もない。何もないテーブルの真ん中に、それだけがあった。
「それは」
「あ、これ」彼女は、容器を手に取った。大事そうに、両手で。「いただいたんです。膝に、いいって」
「牧野さんから」
「先生、牧野さんのこと、ご存じなんですか」彼女の顔が明るくなった。「いい人ですよね。奥さんを亡くされてて。私の話、ずっと聞いてくださって」
京介は、言葉を選んだ。
「それを、預からせてもらえませんか」
「え?」
「捨てはしません。しばらく、私のところに置かせてください」
彼女は、容器を胸の前に持ったまま、京介を見ていた。
「どうしてですか」
答えられなかった。答えは、ある。だが、それを言えば、この人の中で、牧野茂という人が壊れる。この人の話を聞いてくれる人が、一人減る。
「ごめんなさい」彼女は言った。やわらかい声だった。「先生のこと、信用してないわけじゃないんです。……ただ、これは、いいんです」
「……」
「いい人なんです」
同じ言葉を、もう一度言った。自分に言い聞かせる声ではなかった。京介に、分かってほしい、という声だった。
「今度、紹介してくれるって言ってました。もっと、ちゃんと話を聞いてくれる人がいるって。私みたいな人の話を、ずっと聞いてくれる人が」
京介は、たたきに立ったまま、その人の手首を見た。
「少しだけ、脈を、いいですか」
「ここで? いいですよ」
差し出された手首に、左の指を当てた。
上のほうで、少しうわずっている。この街の誰もが、いまそうであるように。それだけだった。底は、ちゃんとある。深いところで、この人の脈は、この人の声で喋っていた。
まだ、抜かれていない。
「……ありがとうございます。木曜、お待ちしています」
「はい。先生、夜道、気をつけて」
戸が閉まった。
容器は、あの人の胸の前にあったまま、閉まった戸の向こうへ消えた。
廊下の蛍光灯が、ちかちかと瞬いていた。
エレベーターは、使わなかった。四階ぶんの階段を、左手で手すりをつかみながら下りた。どの階の戸も閉まっていて、どの戸の向こうからも、テレビの音ひとつ聞こえなかった。
七
帰りは、地下鉄に乗った。
夜の車内は、半分ほど埋まっていた。
京介は、吊り革に左手でつかまって、座席を見下ろしていた。
眠っている。
窓にもたれた学生も、膝に鞄を抱えた勤め帰りの女も、向かいの老人も。駅に着いて、扉が開いて、冷たい風が入っても、誰も目を開けない。車内放送が次の駅の名前を言う。誰も、顔を上げない。
どの顔も、穏やかだった。
ひとつ手前の駅で、向かいの老人が、はっと目を覚ました。窓の外を見て、慌てて立ち上がり、降りていった。降りたあと、ホームで立ち止まって、自分がどこにいるのか確かめるように、あたりを見回していた。
電車が動き出した。老人は、まだそこに立っていた。
京介は、次の駅で降りた。
駅の裏へ回った。
終電には、まだ間がある。高架の下の、自転車置き場の脇。人の通らない一角。前に、ここで膝をついた。
京介は、同じ場所にしゃがんだ。
義眼を外す。
街が、裏返る。人の輪郭に色が滲み、看板の光に層ができる。遠くを歩いていく勤め帰りの男の肩に、灰色がかった薄い色が張りついていた。すれ違う女も、同じ薄さだった。
左の掌を、アスファルトについた。
視えた。
光の筋が、足の下を通っている。
——細い。
前にも、細いと思った。あのときは、それがどれだけ細いのか、比べるものを知らなかった。山で、あの川を見るまでは。
いまは、分かる。
細い、のではない。細っている。
京介は、筋の縁を目で追った。
あった。
筋の両側に、うっすらと、白っぽい帯ができはじめていた。山で見たほど広くはない。幅にして、指二本ぶん。だが、同じものだった。水の引いたあとの、乾いた川床の色。
前に来たとき、これはなかった。
あれから、まだひと月も経っていない。
京介は、掌をついたまま、しばらく動けなかった。
上が痩せれば、先はもっと痩せる。山で、そう思った。思っただけで、どこか遠い話のように聞いていた。
遠くなかった。
ここが、その先だった。
丸田さんの奥さんは、この筋の、どこかの枝の上で眠っている。木曜の人は、この筋の上で、容器を胸に抱いている。
右手を、ポケットから出した。
アスファルトに、置いてみる。
冷たいことは分かる。ざらついた粒が、皮膚に当たっていることも。
それ以上は、何も来なかった。
立ち上がった。
膝を払って、義眼をはめた。視界が半分に戻る。高架の上を、最終の一本前の電車が通っていった。窓の明かりの中で、乗客の頭が、みな同じ角度に傾いていた。
歩き出してから、気づいた。
足の裏が、前ほど、熱くなかった。
八
三日目の朝、丸田さんから電話があった。
「起きないんだ」
丸田さんの声では、なかった。丸田さんの声から、いつもの丸みが抜けていた。
「ゆうべから、一回も起きてない。便所にも。呼んでも、揺すっても、にこにこしてるだけで、目を開けない」
院の戸に、午前休診の紙を貼った。波が、何も言わずに鞄を持った。
丸田米穀店のシャッターは、半分しか上がっていなかった。店先の新米の袋が、三日前と同じ高さのまま積まれていた。口を縫いかけた袋が一つ、針をつけたまま、横に倒れていた。
廊下を通るとき、台所が見えた。炊飯器の蓋が、開いたままになっていた。中は、空だった。内釜の底が、乾いていた。
丸田さんは、靴下を片方しか履いていなかった。京介が気づいたことに、丸田さんは気づかなかった。
西向きの六畳は、カーテンが閉まっていた。
奥さんは、眠っていた。
同じ顔だった。頬に赤みがあって、唇の端が上がっている。呼吸はゆっくりで、乱れていない。額に手を当てると、温かい。枕元のかごの毛糸は、三日前と同じ段で止まっていた。
どこも、悪くない。
脈を取った。
うわずっている。三日前より、さらに上のほうで打っている。指を沈めても、どこまでも底に触れない。
遠い。
この人の体は、ここにある。温かくて、ふっくらとしていて、息をしている。それなのに、脈だけが、上へ、遠くへ、行こうとしている。
京介は、懐から布の包みを出した。
ほどく。金龍鍼が、薄暗い部屋で、鈍く光った。
丸田さんが、それを見た。何も聞かなかった。
——中へ、入れるしかない。
外から打っても、届かない。三日、打った。届かなかった。この人がどこへ沈んでいくのか、中へ入って、確かめるしかない。
京介は、金龍鍼を左の掌に寝かせた。
右の掌を、上からかぶせる。
かぶせた右が、支えにならない。乗っているだけだ。指を閉じようとする。親指と小指が、鍼の両端を探して、外へ滑る。
もう一度。
左の指で、右の指を一本ずつ折り曲げて、鍼の上に置いていく。置いた指が、置いたそばから、ゆるんで開く。
額の前へ、上げられない。
上げれば、落ちる。山で、落とした。あのときは、横に拾ってくれる人がいた。
京介は、両手を膝の上に下ろした。
「先生」
波が、隣に膝をついていた。
「私が、持ちます」
波の両手が、京介の右手の下に、差し入れられようとしていた。京介の右手ごと、鍼を包むつもりだった。
京介は、その手首を、左手で押さえた。
「だめだ」
「でも」
「これは、持たせられない」
九
波の手首から、指を離した。
波は、何も言わずに手を引いた。膝の上で、自分の両手を握っていた。
京介は、金龍鍼を左手に持ったまま、奥さんの首の付け根へ、かざした。
静かだった。
冷えない。曇らない。匂いもしない。生きた人の首の上で、金はただの金として、京介の指の温度のまま、そこにあった。
鍼を下ろした。
左の指を、じかに、首の付け根に当てた。
温かい。
開いている。出ていくものと、入ってくるものが、ふつうに行き来している。どこも押し開かれていない。何も吸い出されていない。
安藤洋子とは、違う。牧野茂とも、戸倉静江とも、岩井さんとも違う。
この人は、抜かれていない。
誰にも、何も、奪われていない。
京介は、指を当てたまま、その奥を探った。入らない。入れない。指の腹で、外から、そっと触れるだけだ。
握って離さないものも、なかった。
この人は、何も、握りしめていない。残していくものに、しがみついていない。怒っていない。恨んでいない。心配すら、していない。
ただ、ゆっくりと、手を離しかけている。
京介は、指を離した。
——還す相手が、いない。
この人は、帰り道を忘れていない。迷ってもいない。ただ、ここから、遠ざかっていく。
依代は、要らなかったのだ。組めなかったのではない。最初から、組むものではなかった。
京介は、金龍鍼を布に包んだ。懐に戻した。
それから、鞄を開けた。
ディスポの、いちばん細いのを、箱ごと出した。
「波」
「はい」
「もぐさを」
波が、顔を上げた。それから、黙って袖をまくった。
打った。
左手で、一本ずつ。脈を取る。打つ。脈を取る。少しだけ、下りる。また打つ。
昼になった。丸田さんが、盆に握り飯を載せて持ってきた。京介は、手をつけなかった。波が、ひとつだけ食べた。
夕方になった。カーテンの隙間が、橙色になった。
夜になった。
丸田さんは、部屋の隅に座って、ずっと妻の顔を見ていた。ときどき、うとうとして、はっと目を開けた。
打つたびに、脈は少しだけ下りる。下りて、しばらくすると、また上へ戻っていこうとする。戻りきる前に、次の一本を打つ。それだけのことを、何百回も、半分の速さで。
脈を取るたびに、京介は、往診票の裏に時刻を書いた。左手で。下りる、戻る、とだけ。
肩が、上がらなくなった。左の指先が、しびれてきた。鍼管を支える指と、叩く指の区別が、つかなくなってきた。
この人は、困っていない。困っていない人を、呼び戻す理由が、どこにあるのか。
京介は、それを考えなかった。
鍼灸師だった。脈が上がっていれば、下ろす。それ以外のやり方を、知らない。
隅で、男が一人、眠らずに座っている。
窓の外が、白みはじめた。
京介の指の下で、脈が、下りた。
ことん、と。
底に、触れた。
奥さんが、目を開けた。
天井を見て、それから、ゆっくりと首を回して、隅の丸田さんを見つけた。
「……あんた」
丸田さんが、腰を浮かせた。
「お腹、すいた」
丸田さんは、口を開けたまま、しばらく動かなかった。
それから、何か言おうとして、言えずに、立ち上がった。
台所へ行く足音が、廊下を遠ざかっていった。
十
丸田さんの家を出たのは、七時を回ったころだった。
奥さんは、布団の上に起き上がって、炊きたての新米を茶碗に半分食べた。おいしい、と言った。今年のは甘いね、と。それから、また横になって、すぐに眠った。
今度の眠りは、浅かった。寝返りを打っていた。
丸田さんは、玄関まで送ってきて、何度も頭を下げた。下げるたびに、何か言おうとして、言葉にならなかった。
「また、夕方に来ます」
「……頼む」
通りに出ると、朝の空気がひんやりしていた。
金木犀の匂いは、もう、どこからもしなかった。
波が、隣を歩いていた。目の下が、少し青い。一晩じゅうもぐさを捻っていた指先が、黒く汚れていた。
京介は、鞄から往診票を出した。
裏が、左手の字で埋まっていた。終わりのほうは、自分でも読めなかった。
「先生」
「なんだ」
「あれ、治ったんですか」
京介は、少し歩いてから、答えた。
「戻っただけだ」
波は、黙っていた。
「また、眠るかもしれない。今夜かもしれないし、来月かもしれない」
波は、前を向いたまま、うなずいた。
「じゃあ、また、行きますね。夕方。私も」
明るい声だった。選んでいる声だった。
交差点で、波と別れた。着替えてから来ます、と波は言った。京介は、一人で院へ歩いた。
院の前に、人が立っていた。
龍之介だった。
暖簾は、まだ出ていない。戸の前で、鞄を両手で持って、まっすぐ立っていた。いつから待っていたのか、耳の先が赤かった。
「おはようございます」
「……早いな」
「先生」
龍之介は、京介の顔を見た。
目を、合わせていた。山から戻った夜から、初めてだった。
「しばらく、休ませてください」
京介は、何も言わなかった。
「辞めるわけじゃありません。……少し、考えたいことがあって」
「そうか」
「理由は、聞かないでください」
「聞かない」
龍之介の眉が、わずかに動いた。何かを、待っていた顔だった。引き止められるのを、か。聞かれるのを、か。それとも、そのどちらでもないものを。
京介は、待たなかった。
「予約表、書き直してくれて、助かった」
龍之介の口が、少し開いた。それから、閉じた。
「……失礼します」
頭を下げて、歩いていった。角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。
京介は、戸を開けて、中に入った。
誰もいない院は、四日ぶりに戻った夜よりも、もっと広かった。
予約表を開いた。今日の午後の欄に、龍之介の右に傾いた字で、あの人の名前があった。木曜の、三時。横に、同じ字で、小さく「お連れ様あり」。
京介は、予約表を閉じた。
奥の棚の前に立った。
いちばん下の引き出しに、手をかけた。
開けた。
桐箱が、あった。色の褪せた紐が、かけたままになっている。埃は、積もっていなかった。
京介は、それを見ていた。
手は、伸ばさなかった。
伸ばせば、鳴る。分かっている。分かっていて、開けた。いままでは、それすらしなかった。
しばらくそうしていて、引き出しを、閉めた。
右手を、ポケットに入れた。
左手で、暖簾を持った。
戸を開けると、朝の光が、たたきに四角く落ちた。
外で、雀が鳴いていた。
「気」は、徴候だけがあって、原因が来ない型です。痛みも、熱もない。本人は、困っていない。困っているのは、そばにいる者だけです。徴候は、いつも苦しみの形をしているとはかぎりません。