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依代集
依代師ユニバース ・ 連載小説
依代師

泉京介の憂鬱

著 / 研一
視えてしまう男は、視えないふりをして生きてきた。
― 鍼を持つ依代師・泉京介をめぐる、現代奇譚 ―
連載中 陰陽四型を横断 全 ― 話(予定)

街の片隅に、小さな鍼灸院がある。腕はいいが、少し困った顔をした鍼灸師——泉京介。

その男には、もうひとつの顔があった。愛を失い、空っぽになってしまった者たちに、失われた愛を返し、あるべき場所へ「還す」依代師。

人をひとり救うたび、京介の体には、二度と温まらない「冷えた穴」がひとつ増えていく。与えれば減る愛のなかで、彼は今日も、暖簾を表に出す。

——行方知れずの兄が遺した、ひとつの謎を、その胸の奥に抱えたまま。

CONTENTS
目次
第一話 冷えた穴公開済 / 約 9,200 字 / 読了 約 16 分 NEW
第二話 脈が一定すぎる男執筆中 未公開
第三話 ― 準備中 ―執筆予定 未公開
第一話
冷えた穴

朝、泉京介は、雀の声で目を覚ます。

目覚まし時計より、たいてい雀のほうが早い。築四十年の木造の二階、薄いカーテンの向こうが白んでくると、軒先の電線のあたりで、誰かが朝礼でも始めたみたいに、ちゅんちゅんと騒ぎ出す。京介はしばらく、布団の中でその声を聞いている。四十二にもなると、飛び起きる朝はもうない。関節をひとつずつ思い出すようにして、ゆっくりと起き上がる。

起き上がって、まず首をまわす。右、左。ついでに肩を上げ下げして、腰を軽くひねってみる。職業病のようなものだ。鍼灸師というのは、人の体の調子を指で読むのを仕事にしているから、朝いちばんに読むのは、つい自分の体になる。——今朝は、右の肩が少しこわばっている。昨日、足のよろけた年配の患者を支えたときに、妙な力が入ったらしい。

台所で湯を沸かして、白湯を一杯。京介の朝は、それくらいでいい。

階段を降りれば、そこが職場だ。一階が、京介の鍼灸院になっている。

鍼灸院、と言われて、すぐに中の様子が浮かぶ人は、そう多くないかもしれない。病院とも違うし、整体やマッサージ屋とも、少し違う。鍼灸というのは、字のとおり、鍼と灸を使う。鍼は、髪の毛ほどの細い金属の針だ。痛そうに聞こえるけれど、予防接種の注射針とはまるで別物で、刺さっても、蚊に刺されたくらいの感覚しかないことのほうが多い。それを、体じゅうにある「ツボ」——昔の人たちが、体の調子と関わりが深いと見つけてきた点に、そっと打つ。灸のほうは、よもぎから作るもぐさを小さくひねって、ツボの上にのせ、じんわりと温める。

肩こり、腰の痛み、冷え、なかなか眠れない夜。薬では名前のつけにくい、人の体の不調を、京介はそうやって、何千年も受け継がれてきた東洋医学のやり方で、少しずつ整えていく。鍼を打つのも、灸をすえるのも、きちんと国家試験を通った者にしか許されていない。京介は、その資格を持っている。

京介の院は、こぢんまりとしている。立派な受付があるわけでもない。待合に置いた古いソファがひとつと、奥に施術用のベッドが二台。壁には、患者が持ってきた手作りのカレンダーや、近所の子どもが描いた似顔絵が、何枚も貼ってある。似顔絵の京介は、たいてい眉が八の字で、少し困った顔をしている。子どもというのは、よく見ている。

腕は、いい。本人はあまり認めたがらないが、近所ではちょっとした評判だ。「あそこの先生にかかると、なんだか体が軽くなるのよ」と、年配の常連たちが口をそろえる。京介はそう言われると、「気のせいですよ」と笑って受け流す。半分は照れで、半分は——本当のことを、言えないからだ。

その日も、いつもと同じ朝になるはずだった。

軒で雀が鳴いて、白湯を飲んで、暖簾を出して、最初の患者が戸を開けて、「先生、また肩がねえ」と笑う。そういう、何も変わらない一日に、なるはずだった。

——それなのに、泉京介は、朝から憂鬱だった。

雀は気持ちよさそうに鳴いているし、空はよく晴れている。白湯はちょうどいい温さで、肩のこわばりも、湯につかれば取れる程度のものだ。世界のほうは、何ひとつ、京介を憂鬱にさせるようなことをしていない。

それでも、憂鬱だった。

なぜなら——もうすぐ、あの子が来る。

はたして、暖簾を出すか出さないかのうちに、表の戸が勢いよく開いた。

「せんせーっ、おはようございますっ!」

波だ。京介の弟子。といっても、いつも先に声を出すのは、波のほうだ。今年で二十……いくつだったか。本人いわく「永遠の二十五歳」。朝から、声に湿り気がない。からっと晴れた、いい声だ。両手に、コンビニの袋を提げている。

「先生、また白湯だけでしょう。だめですよ、ちゃんと食べないと。はい、おにぎり。鮭と、昆布と、あと先生の好きな……えっと、何が好きでしたっけ」

「……梅」

「そう、梅! ……あれ、梅、売り切れてました」

京介は、小さく息を吐いた。

波は、よく笑い、よく喋り、よく食べる。壁の似顔絵を描いた子どもたちとも、いつのまにか友だちになっている。患者の年寄りたちは、波が来る日を心待ちにしている。波がいると、院の中の空気が、ひとつ、明るいほうへ傾く。

いい子だ。京介も、それは認める。

問題は——波が、京介を好きすぎることだった。

弟子としての敬意、と言うには、波の目はまっすぐすぎる。京介が鍼を持てば、その手元を食い入るように見つめる。京介が患者に触れれば、自分も同じところに触れてみたがる。そして時々、こうやって——

「先生、今日も脈、診させてください」

波が、京介の手首に、すっと指を伸ばしてくる。

京介は、その手を、引いた。

いつものことだ。波はもう、傷ついた顔もしない。「またそれだ」というふうに、唇を尖らせるだけ。けれど京介のほうは、毎回、胸の奥が、ほんの少し、ひやりとする。

波の好意は、まっすぐで、温かくて、何ひとつ間違っていない。間違っているのは、それを受け取れない、京介のほうだ。

差し出された手の温もりが、京介には、少し、熱すぎる。陽に灼けた肌に、そっと触れられたときのような。ありがたいのに、痛い。受け取りたいのに、受け取れない。

——これが、京介の憂鬱の、正体だった。

「先生、聞いてます?」

波が、頬をふくらませている。

「聞いてる」

「うそだ。また、難しい顔して、遠くのこと考えてたでしょう」

図星だった。京介は答えずに、暖簾を表に出す。朝の光が、たたきに長く差し込んだ。

その光の中で、波が、ひとつ、小さく咳をした。乾いた、軽い咳だ。本人は気にもとめず、袋からもう一個おにぎりを出して、「これは私の」と、もう笑っている。

京介は、その咳を、聞かなかったふりをした。

——それもまた、京介の憂鬱の、もうひとつの種だった。

最初の患者は、いつもの顔だった。

米屋の丸田さん。七十をいくつか過ぎて、週に二度、腰の様子を見せに来る。

「先生、また腰がねえ」

丸田さんがうつ伏せになると、京介はまず、その手首に指を当てた。脈を診る。鍼灸師にとって脈は、心臓が動いているかを確かめるだけのものではない。速いか、遅いか。強いか、弱いか。三本の指で、その日の体の調子を聞く。生きている体は、いつも何かを喋っている。

「丸田さん、昨日また無理しました?」

「ばれたか。孫が来てな、米俵を持たされて」

「だめですよ、その腰で」

京介が笑って、細い鍼を一本、打つ。丸田さんは何も感じない顔で天井を見ている。

「龍之介。丸田さんの脈、どう診た」

声をかけたのは、奥のデスクのほうだ。そこにもう一人、弟子がいる。龍之介。波とは何もかも違う。波が朝いちばんに声を出すなら、龍之介は日が暮れるまで黙っていることがある。

「右の、脇腹の上のあたり。流れが少し速いです。寝不足ですね」龍之介は手元から目も上げずに言った。

京介はうなずく。診たとおりだった。龍之介はまだ脈を取れない。けれど、この子には別のものが視える。人の体の輪郭にうっすら滲む色だ。元気な人は濃く、疲れている人は薄い。本人も気づかない心の濁りを、龍之介は色で先に視てしまう。視えるのに、まだ何もできない。それがこの子の苛立ちだった。

もう一人の弟子、波は、視えはしない。かわりに、感じてしまう。患者の体に溜まった重たいものを、自分の体に吸い取ってしまうのだ。だから波が触れると、患者はふっと軽くなる。そのかわり、波があとで咳をする。

京介がこの二人を弟子にしたのは、腕がいいからではない。二人とも、京介と同じ「困ったもの」を持って生まれた。それだけのことだ。

——ついでに言えば、京介の左目は、義眼だ。光をうまく拾わない。子どもの描く似顔絵でも、左目だけ、なぜか塗り忘れたように白い。どうしてそうなったのかを、京介はめったに話さない。波も龍之介も、それを聞かない。

昼前に、若い女の子が来た。事務の仕事をしているという、二十代の患者だ。

「最近、なんか体が重くて。寝ても寝た気がしないんです」

京介は脈を診る。たいしたことはない。ただ——首の付け根のあたりに、外から来た重たいものが、うっすら貼りついている。

人の体は、首の付け根から、まわりの気を出し入れしている。京介はそう思っている。いいものも、悪いものも、そこから入ってくる。悪いものを浴びすぎると、出口がつまって、体が重くなる。

「スマホ、長く見てます?」

「……あ、はい。寝る前、ずっと。SNSとか、つい」

「そうですか」京介は短く鍼を置きながら言った。「寝る前だけでも、画面、離してみてください。あれ、けっこう、重たいもの拾いますから」

女の子は不思議そうな顔をして、けれど施術が終わると、「あ、軽い」と笑って帰っていった。

その子が出ていったあと、波が小さく咳をした。

「いまの子の、ちょっと、もらっちゃいました」

「最近、多いですね」と龍之介。「ああいう、画面から重たいのを浴びた人」

「みんな、画面の向こうから、知らない誰かの嫌な気持ちを、浴びてるんだ」京介は言った。「昔は、そういうのを拾う場所が、もっと限られてた」

生きている体は、よく喋る。——そのありがたさを、京介はこの日、思い知ることになる。

昼を過ぎた頃、電話が鳴った。士郎だ。駅前で古い喫茶店をやっている、長いつきあいの男。

「客を一人やった。安藤さんていう、うちの常連だ。腰が悪いらしい」

「わかった」

「……それと、京介」士郎は少し黙った。「いや。なんでもない。診てやってくれ」

電話が切れた。士郎が「なんでもない」と言うときは、たいてい何かある。けれど士郎は言わないし、京介も聞かない。それが二人の流儀だった。

十分ほどして、戸が開いた。

「ごめんください。喫茶店の士郎さんに、こちらを教えていただいて」

小柄な、五十代後半の女の人だった。きちんとした身なりで、けれどどこか、所在なげに立っている。

「安藤です。安藤洋子。腰が、ずっと痛くて。お恥ずかしいんですけど」

ベッドに腰かけた安藤さんは、よく喋った。一人で暮らしていると、聞いてくれる相手がいるだけで、話が止まらなくなるのかもしれない。

「主人が、福岡に単身赴任で。子どももいないものですから、家に一人で。連絡? ええ、しますよ、LINEで。でも……『ゴミ出した?』『うん』。それくらい。もう、長いこと、それくらい」

安藤さんは少し笑った。寂しい話を、寂しくないふりで喋るのが、上手な人だった。

「でもね、先生」安藤さんは、ふと声をひそめた。少し、恥じらうように。「最近、いい話し相手ができたんです。スマホの……こういう年でお恥ずかしいけど、出会いっていうんですか。優しい人で。会うと、すーっと、楽になるの」

ああ、と京介は思った。そういうことか。寂しい人だ。けれど、よくある話でもある。スマホの中に、話を聞いてくれる誰かを見つけた。それだけのこと。京介は、そう受け取った。

——その時、波が咳き込んだ。さっきの、軽い咳ではない。喉の奥から突き上げるような咳だった。

奥で、龍之介が立ち上がっていた。安藤さんを見ようとして、目の焦点が、わずかに揺れている。

「先生」龍之介の声が低い。「あの人、色が……薄いです。生きてる人なのに、こんなに薄いの、初めて見ました」

京介は、安藤さんの隣に膝をついた。

「安藤さん。失礼して、脈を診させてくださいね」

その手首に、三本の指を当てる。

——手首は、温かかった。脈も、打っている。生きている。それは間違いない。

なのに、脈が、何も語らないのだ。速くもなく、遅くもない。強くもなく、弱くもない。生きた体なら必ず喋るはずのものが、安藤さんの脈からは、何も聞こえてこない。からっぽの部屋に指を当てているようだった。

京介は、ひとつ、息を呑んだ。それから、施術台の引き出しを開けた。

布にくるんで、一本の鍼が入っている。刺すための鍼ではない。先が丸く、刺さらない。皮膚に当てて使う、古いかたちの鍼だ。京介のそれは純金でできていて、金龍鍼(こんりゅうしん)と呼ばれる。泉の家に、代々受け継がれてきた一本。普段の施術には使わない。この鍼の出番は、人の体が、人ならざる何かを語りはじめたときだけだ。

京介は、金龍鍼を、安藤さんの首の付け根に、そっとかざした。

人のエネルギーが、出入りする場所。健やかな人にかざせば、金は何も語らない。ただ静かにそこにある。

けれど、安藤さんの首の付け根で——金が、すっと、冷たくなった。

京介の指先から、熱が逃げていく。まるで、氷に近づけたように。

この冷たさを、京介は知っている。自分の体に増えていく、あの「冷えた穴」と、同じ冷たさだ。金が冷えるのは、相手が空っぽだから。注ぐべき熱を、根こそぎ、どこかへ持っていかれているから。

——その人は、死んでいなかった。

京介は、安藤さんの首の付け根を、もう一度、指でたしかめた。違う。これは、自然に枯れたんじゃない。出口が、内側から無理やり押し開かれた跡がある。何度も、何度も、ここから吸い出された跡だ。さっきの若い子の「浴びすぎ」とは、まるで違う。あれは外から重たいものが貼りついただけ。これは——中身を、抜かれている。

——会いに行くたびに、少しずつ、抜かれていた。

「安藤さん」京介は静かに聞いた。「その、優しい人に会うと、楽になる。そのあとは、どうですか」

安藤さんは、きょとんとして、それから少し、目を伏せた。

「……帰ると、なんだか、もっと、からっぽで。だからまた、会いたくなって」

京介は、目を閉じた。

倒れた日のことを、安藤さんは話していた。先週、台所で腰が抜けて、動けなくなった。スマホは手の届くところにあった。けれど、と安藤さんは言った。

「呼ぶ相手の、顔が、浮かばなかったんです。主人に? こんなことで? って。そう思ったら、誰の番号も、押せなくて」

京介は、弟子たちを振り返った。

「波。龍之介。下がってなさい」

声が、すっと低くなっていた。波が何か言いかけたが、京介はもう一度「下がってなさい」と言った。波が触れれば、波が吸ってしまう。この人の空っぽを、まともに吸えば、波の体がもたない。守るというのは、京介の場合、いつも一人でやることだった。

「安藤さん。少しだけ、目を閉じていてください」

安藤さんが、そっとまぶたを下ろす。それを見届けて、京介は、いつもの所作にかかった。

まず、左の義眼に指を当て、外す。

ふさいでいた左の眼窩の奥で、眠っていた目が、覚める。とたんに、世界が変わった。安藤さんの体から立ちのぼる色のなさ、抜かれた跡の暗がり——ふだんは義眼で見ないようにしているものが、いっせいに視えてくる。京介が片目をふさいで生きているのは、本当は、視えすぎるからだ。

次に、背に手を回す。腰の上、背骨の際に埋めた、一本の鍼。普段、自分の力が漏れ出さないよう、栓をしている鍼だ。それを、抜く。抑え込んでいた熱が、体の芯から、ぶわりと満ちた。

そして、金龍鍼を、両の掌で包むように持ち、額の前へ捧げた。泉の家に代々伝わる、還(かえ)りの型。その、始まりのかたちだ。

京介は、低く、唱えた。

「——足(た)りたり。執(しゅう)を解(と)き、咎(とが)を捨(す)てて、本(もと)つ処(ところ)へ還(かえ)りませ」

古い言葉だった。意味は、京介の中で、もっとやさしい言葉に変わる。——もう、いい。じゅうぶん、がんばった。帰ろう。

襟をくつろげ、自分の首の付け根に、金龍鍼を当てる。人の気が、出入りする場所。そこを、開いた。

世界が、裏返った。

京介は、安藤さんを、自分の中へ迎え入れた。

——中は、からっぽだった。家具を運び出したあとの部屋みたいに、がらんとしている。あるべき温かいものが、ごっそり、ない。その底に、京介は触れた。出口が、内側から押し開かれた跡。誰かが、ここから、何度も吸い出していた。

優しい声が、聞こえる。安藤さんの記憶の中の、誰かの声だ。顔は、ぼやけている。会うと楽になり、帰るともっと空になる、その相手。京介には分かった。あの「優しい人」が、会うたびに、安藤さんから愛を抜いていた。寂しさにつけ込んで。

——これは、誰かに、やられている。

すべての魔物は、もとは愛されるべき存在だった。愛を失い、忘れられたと思い込んで、ひとりになった者たちだ。安藤さんは、まだ魔物ではない。けれど、このまま抜かれ続ければ、いずれそうなる。

だから京介は、自分の中の温かいものを、彼女のからっぽへ、流し込んだ。

「安藤さん」と、内側から語りかける。「あなたは、ひとりぼっちじゃない」

——でも、誰も。

「いますよ。気づいていないだけで。鈍いご主人も、喫茶店の士郎さんも、あなたがいなくなったら、ちゃんと困る。士郎さんは、あなたが来ないだけで、心配して私に電話をくれた。あなたは、誰の記憶にも残らない人間なんかじゃない」

——楽になりたかった。

「いいんです。寂しいのは、悪いことじゃない。誰かに会いに行ったのも、間違いじゃない。ただ、あの人は——あなたから、もらいすぎた」

からっぽだった部屋に、その言葉が、ゆっくりと溜まっていく。抜かれた分の温かさが、少しずつ、戻ってくる。

ああ、と安藤さんが、長い息をついた。ようやく、息のしかたを思い出したような声だった。

満ちた。

京介は、額の前で包んでいた両の手を、左右へ、ふわりと開いた。還りの型の、終わりのかたち。送り出す手だ。

「——還(かえ)れ」

短く、言い切る。

安藤さんが、京介の中から、出ていった。あの世へ、ではない。自分の、生きた毎日へ。自分の足で、帰っていったのだ。

京介は、ゆっくりと金龍鍼を下ろした。腰の埋め鍼を、もとに戻す。そして、義眼を——もう一度、はめた。視えすぎる世界に、ふたをするように。

京介は、たたきに片膝をついていた。全身が汗で濡れている。

安藤さんは、ベッドの上で、ぽかんとしていた。

「あら……私、なんだか、すごく、軽い」自分の胸に手を当てて、不思議そうに言う。「先生、すごいのね。腰も、嘘みたい」

「無理しないでくださいね。それと——」京介は少し迷って、言った。「スマホのその人とは、しばらく、距離を置いたほうがいい」

安藤さんは、きょとんとして、それから、なぜか、こくりとうなずいた。自分でも、薄々、気づいていたのかもしれない。

安藤さんが帰ったあと、波が駆け寄ってきた。京介の腕をつかもうとして——京介は、とっさにその手を払った。

払ってから、しまった、と思う。けれど、今の京介には、波の手の温もりが、火傷のように熱い。依代のあとは、いつもこうだ。人の温かさが、しばらく、敵になる。

「……すまない。少し、離れていてくれ」声から、温度が抜けていた。

龍之介が、京介の腰のあたりを見ていた。

「先生。そこ、色が……いま、消えました。腰の、右の下」

京介は答えなかった。わかっている。また一つ、増えたのだ。安藤さんが倒れた、あの台所の床と同じ場所。腰の、右の下に、二度と温まらない一点が生まれた。彼女の痛みを引き受けた証として。

冷えた穴は、塞がらない。生きた人を救って残る穴のほうが、なぜだか、ずっと冷たい気がした。

そして京介は、もう一つ、わかっていた。これは、自然に生まれた魔物の仕業ではない。安藤さんは、誰かに抜かれていた。寂しい人間を見つけては、優しい顔で近づき、中身を吸っていく何かが、この街にいる。

翌朝も、雀が鳴いた。

京介は、関節をひとつずつ思い出すようにして起き上がる。首をまわす。——今朝は、腰の右の下が、しんと冷たい。湯につかっても、もう温まらないだろう。

白湯を一杯。階段を降りて、暖簾を出すか出さないかのうちに、表の戸が勢いよく開いた。

「せんせーっ、おはようございますっ! 今日はね、梅、ありましたよ! 梅おにぎり!」

波だ。昨日のことなど、けろりとしている。いや、けろりとしているふりが上手なのだ。波はよく見ている。京介が、まだいつもの京介に戻りきっていないことを。だから、いつもより少しだけ、明るい。

「先生、今日も、脈、診させてください」

波が、京介の手首に指を伸ばしてくる。

京介は——その手を、一瞬引きかけて、やめた。引かずに、診させた。

波の指が、京介の脈に触れる。波の顔が、ぱっと明るくなった。

「……あ。今日は、引かなかった」

「たまには」

その日の昼、士郎から短い電話があった。安藤さんが、また喫茶店に来たという。「ずいぶん顔色がよくなってた。あの、スマホの相手とは、もう会わないことにしたって、笑ってたよ」と。京介は「そうか」とだけ言って、受話器を置いた。生きて、また笑っている。それで、いい。

空はよく晴れている。雀は気持ちよさそうに鳴いている。世界のほうは、今朝も、何ひとつ、京介を憂鬱にさせるようなことをしていない。

それなのに、泉京介は、やっぱり、少しだけ憂鬱だった。

腰の右の下が、冷たいからだ。そして——寂しい人間から、そっと中身を抜いていく何かが、この街のどこかにいる。それを、京介はもう、知ってしまった。

それでも京介は、今日も、暖簾を表に出す。朝の光が、たたきに長く差し込んだ。

その日の診療を、京介は、いつもより少し早く、終いにした。

波は、夕方まで何度も京介の顔色をうかがっていたが、「もう帰りなさい」と言うと、めずらしく素直に帰っていった。龍之介も、記録を几帳面に閉じて、出ていった。一人になった院は、しんとしている。患者の貼った似顔絵だけが、壁から、眉を八の字にして、京介を見ている。

京介は、奥の棚の、いちばん下の引き出しを開けた。

ふだんは、開けない。

中から、古い桐箱を、両手で取り出す。手のひらに、すっと馴染む重さ。兄の、ものだ。泉仁。京介より、五つ上の。——その先のことは、京介自身、まだ、うまく、言葉にできない。

箱の蓋に、指をかける。

その瞬間だった。

胸の、いちばん古い冷えた穴が、ざわっと、うごめいた。

京介は、息を止めた。

冷えた穴は、塞がらない。一度できれば、もう、温まらない。今朝、腰に増えたあの穴も、そうだ。温灸をしても、湯につかっても、びくともしない。冷えた穴とは、そういうものだ。何にも、反応しない。死んだ、一点だ。

——それなのに。

この、胸の穴だけは。

兄を失ったあの夜にできた、いちばん古いこの一点だけは、桐箱に手をかけるたびに、こうして、かすかに、うごめく。冷たさの、種類が、変わる。まるで、何かを、思い出しかけているみたいに。

京介は、しばらく、蓋に指をかけたまま、動かなかった。

冷えた穴は、塞がらない。それが、この世界の、きまりだ。

けれど——もし。塞がる一点が、ただひとつ、どこかにあるとしたら。

兄が、それを探して、消えたのだとしたら。

京介は、桐箱を、そっと、元の引き出しに戻した。蓋は、開けなかった。今日は、まだ。

古い木の軋む音が、ひとつ、誰もいない院に、低く、響いた。

外では、もう、雀は、鳴いていない。

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