序
夜の道を、歩いている。
どこへ行くのか、自分でもよく分からない。ただ、足のほうが先に決めている。曲がるべきところで、勝手に曲がる。まかせておけば、そのうち着く。そういう気がしている。
右の手に、白くて丸いものを握っている。掌にのるくらいの。いつから握っているのかは、思い出せない。
渡さないと、と思う。
誰に、とは出てこない。けれど、渡さないといけない。それだけは、はっきりしている。
見覚えのある角を曲がった。
曲がってから、そこが自分の家の前だと気づく。門柱に、自分の名字が出ている。母が生きていた頃に彫り直した、少し大きすぎる表札だ。
窓は、暗い。
足は、止まらなかった。
通り過ぎて、また次の角へ向かう。おかしいとは、なぜか思わなかった。
顔を上げる。街灯は、まばらだ。
——それなのに、道が明るい。
上からではない。
下から。アスファルトの、その下のあたりが、うっすらと明るい。
こんなもの、前はなかった。
それから、もうひとつ、思う。
風が吹いている。かなり、冷たい風だ。
——寒くない。
寒くないのは、おかしい。
一
雀が、鳴いていない。
泉京介は、布団の中で、そのことに気づいた。
目が覚めたのは、いつもの時刻だった。カーテンの向こうも、いつもどおり白んでいる。ただ、軒先の電線のあたりが、静かだった。朝礼が、始まらない。
起き上がって、窓を開けた。
空が、白い。
曇っているのとは違う。膜が一枚張ったような、平たい白さだった。この十日ほど、ずっとこれだ。天気予報は晴れと言っている。晴れているのだろう。日は、どこにも見当たらない。
通りの向かいで、新聞を取りに出てきた家の人が、玄関先で立ち止まっていた。空を見ている。しばらく見て、それから首をかしげて、家に入っていった。
京介は、窓を閉めた。
首をまわす。右、左。肩を上げ下げして、腰を軽くひねる。
腰の右の下が、冷たい。
一か月半になる。もう、驚かない。湯につかっても灸をすえても動かないことは、とっくに確かめた。冷えた穴とは、そういうものだ。何にも反応しない。増えたときに一度だけ痛んで、あとはただ、そこにある。
白湯を一杯。階段を降りる。
「先生」
波が、すでに来ていた。暖簾より先に来ている。
手に予約表を持って、めずらしく、笑っていなかった。
「今日、三十人です」
京介は、湯呑みを置いた。
「……三十」
「三十一かもしれません。さっきも電話が鳴ってました。留守電、入ってます」
予約表を受け取る。びっしり埋まっている。書き込む欄が足りなくて、波が余白に縦書きで足していた。
名前の半分は、知らない名前だった。
「この、上のほうの三人」
「昨日の飛び込みです。駅二つ向こうから来たって」
「二つ向こうにも、鍼灸院はあるだろう」
「そこも、いっぱいだそうです」
京介は、予約表をもう一度上から見た。
二十代。四十代。七十代。子どもの名前もある。住所も、職業も、ばらばらだった。共通しているものが、見当たらない。
「丸田さんは」
「入ってません」
週に二度、必ず来る人だ。腰の様子を見せに来て、孫の話をして帰る。その名前が、今週、一度もない。
「電話は」
「してません。……したほうがいいですか」
京介は、少し迷って、「いや」と言った。忙しさで頭が回らなかったのだと、あとで思う。
波は、京介の顔をしばらく見ていた。それから、ふっと明るい声を作った。
「大丈夫です。私、今日は走ります」
「走らなくていい」
「走ります。先生が三十人診るのは無理なので、私が下ごしらえします」
波は、袖をまくりながら、奥へ入っていった。
まくった腕が、細かった。
二
午前だけで、十四人が来た。
全員が、ほとんど同じことを言った。
眠れない。眠っても、眠った気がしない。朝、起きられない。夕方になると動悸がする。体が重い。だるい。理由がない。病院で調べたが、どこも悪くないと言われた。
三十代の会社員は、「電車の中で、急に息が浅くなる」と言った。七十代の主婦は、「夜中に三度、目が覚める。目が覚めると、耳鳴りがしている」と言った。高校生の男の子は、母親に連れられて来て、うつむいたまま、「怖い夢を、毎晩見ます」と言った。どんな夢か聞くと、「覚えてないんですけど、怖かったことだけ覚えてます」と答えた。
赤ん坊を抱いた母親は、こう言った。
「この子は、元気なんです。よく寝るし、よく飲むし。……私だけなんです」
京介は、一人ずつ脈を診た。
診るたびに、指先の手応えが、少しずつ似てくる。
どの脈も、悪くはない。速すぎもしないし、遅すぎもしない。ただ、どれも、うわずっている。上のほうで細かく震えていて、深いところに下りていかない。指で追いかけると、するりと逃げる。
——地に足がついていない。
鍼灸師の言い方ではない。けれど、指がそう言っていた。
そして、もうひとつ、京介が気づいたことがある。
誰も、「痛い」と言わない。
肩が痛い、腰が痛い、膝が痛い——この十五年、京介が聞いてきた言葉の九割はそれだった。それが、今日は一度も出てこない。
痛みではないのだ。
昼をまわった頃には、京介は、一人にかけられる時間を半分に削っていた。
問診を短くする。世間話を切る。鍼の本数を減らす。終わったら、すぐ次を呼ぶ。
三人目あたりで、自分が何をしているのか気づいて、京介は手を止めた。
この十五年、京介は、一人を丁寧に診ることだけをやってきた。話を聞く。指で読む。時間をかける。それが仕事のほとんどだった。「あそこの先生にかかると、なんだか体が軽くなる」と年寄りたちが言うのは、腕の話であると同時に、そこにかけた時間の話でもある。
それが、できていない。
流れ作業になっている。
「先生」
龍之介が、記録の手を止めて、こちらを見ていた。
「なんだ」
「色が」龍之介は言った。「みんな、同じです」
「同じ、というのは」
「薄いんですけど、全員、同じ薄さなんです」龍之介は、記録用紙の端を指で折っていた。落ち着かないときの癖だった。「ふつうは、違うんです。疲れてる人と、悩んでる人と、体が弱ってる人とでは、薄さの出方が違う。にじみ方も、抜け方も違う。……今日の人たちは、判で押したみたいに、同じところが、同じだけ、抜けてます」
「昨日は」
「昨日も、少しそうでした。おとといは、そこまでじゃなかったです」
京介は、次の患者のカルテを見た。
「先生、これ、何が起きてるんですか」
京介は、答えなかった。
答えられなかった、というほうが正しい。
人の体に起きることなら、たいていは説明がつく。仕事、季節、加齢、心配ごと、寝る前の画面。三十人が同じ形に薄くなる理由は、そのどれでもない。
「……分からない」
言ってから、京介は、その言葉の重さに自分で驚いた。
龍之介も、驚いた顔をしていた。この人が分からないと言うのを、聞いたことがなかったのだろう。
その日の最後から二人目の患者を送り出したところで、うしろで音がした。
波が、施術台の角に手をついていた。ついた手が、滑っていた。
「波」
「……あ、すみません。ちょっと、立ちくらみ」
波の顔から、色が抜けていた。額に、汗が浮いている。この子は、患者の体に溜まった重たいものを、自分の体に吸い取ってしまう。だから触ると患者は軽くなり、そのかわり、あとで咳が出る。
今日は、朝から一度も咳をしていない。
「咳は」
「……出ないです」
「出ないのか」
「出ません。なんか、出そうで、出なくて」波は、胸のあたりを掌でさすった。「ここまで来て、止まってる感じです」
吸ったものが、外へ出ていっていない。全部、中に溜まっている。
「帰りなさい」
「まだ一人」
「帰りなさい」
波は、めずらしく、逆らわなかった。
それがいちばん、こたえた。
三
最後の患者を送り出したあと、電話が鳴った。
士郎だった。
「京介。今、いいか」
「ああ」
受話器の向こうで、コーヒーミルの音が止まった。閉店後の店で、片づけをしながらかけているのだろう。
「……戸倉さんな」
京介は、少し考えて、思い出した。士郎の店の常連だ。一か月ほど前、士郎が「先週から店に来てない」と言っていた人。あのとき士郎は、痩せた、とも言った。
「その人が、どうかしたか」
受話器の向こうで、士郎が、息を吸った。
「先月、葬式が済んでる」
京介は、受話器を持ち直した。
「……いつだ」
「二十日ほど前だ。俺も行った」
「なぜ、言わなかった」
「言えるか」士郎の声が、少し荒かった。「お前に牧野さんのことを頼んで、駄目だったばかりだ。そのうえ、もう一人は死にましたなんて、言えるか」
京介は、何も言えなかった。
士郎が黙るときは、たいてい何かある。今度のそれは、京介への気遣いだった。それが分かるだけに、余計に始末が悪い。
「……人は、来てたか」
「少なかったな」士郎は言った。「あの人、長いこと母親の介護をしててな。それで、ずっと家にいた。看取ってから、うちに来るようになった。……知り合いを作り直す時間が、なかったんだろう」
京介は、目を閉じた。
「それで、なんで今、言ったんだ」
「木曜の午後に来る人がいるだろう。化粧の濃い」
「……ああ」
牧野が、渡すつもりだと言っていた相手の一人だ。士郎には、あの人から何をもらっても受け取るなと伝えてある。
「あの人が、今日、青い顔して来てな」士郎は言った。「先週の夜、駅の裏で、戸倉さんを見たと言うんだ」
「見間違いだろう」
「俺もそう言った。似た人だろう、暗かったんだろう、と。……そしたら、あの人がなんて言ったと思う」
「なんて」
「『声、かけたんです』」
京介は、窓のほうを見た。もう暗い。膜の張ったような空が、そのまま夜になっていた。
「返事があったと言うんだ。ちゃんと。こんばんは、って」
「……」
「向こうも足を止めて、こっちを見て、こんばんは、って言ったそうだ。それで、そのまま行っちまったと。あの人は、そのまま歩いて帰った。家に着いて、鍵を開けて、上がって、それで、思い出したんだと」
士郎は、そこで一度、黙った。
「そのとき初めて、あれ、あの人お葬式済んでるよね、って」
京介は、受話器を握ったまま、動かなかった。
「葬式、俺も行ったんだぞ」士郎が、低く言った。「顔も見た」
四
夜の九時を過ぎてから、京介は院を出た。
波は帰した。あの子を連れていくわけにはいかない。
龍之介には、声をかけた。
「今夜、少し出る。付き合え」
龍之介は、コートの袖に腕を通しかけたまま、止まった。
「……どちらへ」
「駅の裏だ」
二秒ほど、間があった。
「すみません。今日は、用事があって」
この子が断るのは、初めてだった。
京介は、その顔を見た。龍之介は、目を合わせなかった。記録の束を、きれいに角を揃えて、鞄に入れている。ふだんどおりの手つきだった。ふだんどおりすぎた。
「……用事か」
「はい」
それ以上は、聞かなかった。二十四の男に用事があって、何がおかしい。
「分かった」
戸を閉めるとき、うしろで龍之介が「先生」と言った。
「なんだ」
龍之介は、鞄の持ち手を握っていた。
「……気をつけてください」
駅の裏は、飲み屋の裏口と、月極の駐車場と、シャッターの下りた小さな工場が並んでいる一角だった。
昼はそれなりに人が通る。夜は、店の裏口から出てくる従業員が煙草を吸っているくらいだ。灯りは、自動販売機と、駐車場の隅の外灯だけ。
京介は、その道を、端から端まで、ゆっくり歩いた。
三百歩ほどの距離だった。
一度往復した。何も起きなかった。左手を上着の内に入れて、布にくるんだ鍼の位置を確かめる。それだけの往復だった。
二度目の、半ばで、足を止めた。
止めてから、なぜ止めたのか、しばらく分からなかった。
音がしたわけではない。何かが見えたわけでもない。ただ、体のどこかが「ここだ」と言った。
京介は、しゃがんで、靴の紐を結び直すふりをした。
指が動いているあいだ、意識を足の裏に置く。診るときと同じだ。指に意識を集めて、余計なものを黙らせる。
——熱い。
地面が、というより、靴底の向こう側が、かすかに熱い。
温泉の湯脈の上に立ったときのような、と言えば近い。ただし温度は、ずっと低い。人肌より、ほんの少し高いくらいだ。
立ち上がって、三歩、下がってみる。
消えた。
三歩、戻る。
ある。
もう三歩、進む。
まだ、ある。少し弱い。
京介は、その場に立って、あたりを見た。
駐車場のフェンス。自動販売機の低い唸り。閉まったシャッター。捨てられた傘。何もない。どこにでもある、夜の裏道だった。
そして、そこだけが、暖かかった。
五
京介は、左手を、義眼に当てた。
外すのは、久しぶりだった。
この目を開ければ、見えなくていいものまで見える。だから塞いでいる。塞いだまま生きるのが、京介の日常のほうだった。
あたりを見まわす。街灯の光が届かない場所だ。人はいない。
外した。
塞いでいたものが、開く。
——見えた。
京介は、片膝をついた。
膝が、勝手に折れた。
アスファルトに、掌をつく。
その下に、光の筋が走っていた。
太いものが、一本。そこから細く枝分かれしたものが、いくつも。京介の立っている場所を、駅のほうから川のほうへ、斜めに横切っていく。
灯りではない。熱でもない。人の体に指を当てたときに、指のほうが読むもの——あれと、同じものだった。
流れている。
脈と同じように。経絡と同じように。速さがあり、向きがあり、深さがある。
道の下を。街の下を。この街よりも遥かに大きな何かが、流れている。
京介は、掌を離せなかった。
四十二年生きて、鍼を十五年打って、人の体の中を流れるものを毎日読んできた。それが人の中だけの話ではないなどと、誰も教えてくれなかった。
——いや。
教えられなかったのではない。誰にも、見えていなかったのだ。
京介は、掌を、少し横へずらした。
太い筋の真上に重ねる。
指が、痺れた。痺れは肘まで上がってきて、そこで止まった。
そして、気づいた。
細い。
太いほうの筋も、指二本ぶんほどの幅しかない。まわりに散っている枝は、糸のようだ。触れれば切れそうな細さだった。
これがどれくらいの太さであるべきなのか、京介は知らない。比べるものがない。今日初めて見たものだ。
それでも、分かった。
人の脈を毎日読んでいれば、分かる。細っているものと、もともと細いものとは、手応えが違う。これは、痩せている。前はもっと太かったものが、絞られている。
——経絡は、十二本と決まっている。
京介は、掌をついたまま、声に出さずに数えた。
肺から始めて、肝で終わる。十二。奇経を足しても、この場所を、この向きに走るものはない。
これは、何番目だ。
背後で、砂利を踏む音がした。
六
京介は、立ち上がりながら、義眼をはめた。
視界から光の筋が消える。ただの夜の裏道に戻った。
その道を、人が歩いてくる。
小柄な、年配の女性だった。厚手のカーディガンを羽織って、下は普段着のスカート。足元はサンダルに近い靴だ。近所のコンビニに出るような格好だった。
夜の九時半に、駐車場の裏を歩く格好ではない。
「こんばんは」
京介は、そう言った。
「こんばんは」
返事があった。
声に、張りがある。目が、合った。歩き方に、ふらつきがない。
息が、白い。
京介は、自分の指先が冷たくなっているのに気づいた。
「戸倉さん、でしょうか」
「はい」女性は、少し首をかしげた。「……どちらさま」
「泉といいます。士郎さんの、友人で」
「まあ。士郎さんの」
戸倉さんの顔が、ほころんだ。
ほころび方が、自然だった。知らない土地で知っている店の名前を聞いた、という顔だった。
「あの店は、いいでしょう。私、母を看取ってから、ずっと通ってて」
「ええ」
「先生、あそこの砂糖壺、ご存じ? 蓋が欠けてるの。ずっと直さないの。何度も言ったんですけどね、士郎さんが『まだ使える』って」
「……士郎らしい」
「そうなんですよ。あの人、けちなんじゃなくて、物が減るのが嫌なだけ」
戸倉さんは、口元に手を当てて笑った。
京介は、うなずいた。
喋る。よく喋る。生きた人が喋るように喋る。話が繋がるし、間も合っている。士郎から聞いた話とも矛盾しない。
だからこの時点で、京介はまだ、半分は、木曜の午後の人の見間違いを疑っていた。
「戸倉さん。こんな時間に、どちらへ」
「あら」
戸倉さんは、そこで止まった。
止まって、自分の右手を見た。
白い、丸い容器を握っていた。
「……渡さないと」
「どなたに」
「……」
「戸倉さん。どなたに、渡すんです」
戸倉さんは、容器を見たまま、答えなかった。
答えられないのではない。困っているのでもない。ただ、その質問が、通じていなかった。壁に向かって話しかけているのと、同じだった。
「それは、どこで」
「もらったんです」
「いつ」
「……」
京介は、上着の内から、布にくるんだ鍼を出した。
金龍鍼を、戸倉さんの首の付け根に、そっとかざす。
金が。
——ほの暗く、曇った。
冷えたのではない。匂ったのでもない。掌の中で、金の色が、すっと沈んだ。夜の色を吸い込んだように。
京介は、鍼を下ろした。
泉の家は、昔から、魔物に十干をふる。甲(こう)、乙(おつ)、と。
甲は、もと人間だ。
この鍼が曇るのは、そういうときだった。
「戸倉さん」京介は言った。「もう、渡さなくていいんですよ」
戸倉さんは、京介を見た。
初めて、その顔に、困った色が浮かんだ。
「でも、頼まれたから」
「誰に頼まれたか、覚えていますか」
「……」
「戸倉さん」
京介は、声を落とした。落とすと、温度が抜けた。
「あなたは、二十日前に、お葬式が済んでいます」
風が吹いた。
自動販売機の脇で、捨てられた傘が、からりと倒れた。
戸倉さんのカーディガンの裾は、揺れなかった。
七
京介は、左の義眼に指を当て、外した。
背に手を回し、腰の上に埋めた鍼を、抜く。
抑え込んでいた熱が、体の芯から満ちた。
金龍鍼を両の掌で包み、額の前へ捧げる。
「——足(た)りたり。執(しゅう)を解(と)き、咎(とが)を捨(す)てて、本(もと)つ処(ところ)へ還(かえ)りませ」
もう、いい。じゅうぶん、がんばった。帰ろう。
襟をくつろげ、自分の首の付け根に、金龍鍼を当てる。そこを、開いた。
世界が、裏返った。
——中は、暖かかった。
京介は、息を呑んだ。
安藤洋子の中は、家具を運び出したあとの部屋だった。牧野の中には、部屋そのものがなかった。
戸倉さんの中には、ものが、たくさんあった。
母の手の重さ。持ち上げるときの、脇の下の骨の感じ。夜中に何度も起きて、そのたびに歩いた廊下の冷たさ。三年目からは電気をつけなくても歩けるようになったこと。看取った朝の、窓の色。窓を開けたら、外がやけに普通だったこと。
それから——
蓋の欠けた砂糖壺。冬の窓。向かいの空いた席。士郎が何も言わずにコーヒーを置いていく、あの置き方。二杯目を頼まなくても出てくること。
全部、残っていた。
京介の胸の奥が、詰まった。
牧野は、生きていた。生きていて、中には何もなかった。
この人は、死んでいる。死んでいて、こんなに持っている。
——順番が、逆だ。
いや、逆ではない。
この人は、抜かれ切る前に、死んだのだ。
それだけの違いだった。それだけの違いで、こちらは残り、あちらは残らなかった。
京介は、その暖かいものの中を、探した。
これだけ残っているのに、なぜ、この人は還っていないのか。
あった。
いちばん手前に、それだけが、場違いに置いてある。
白い、丸い、容器の重さ。
渡さないと、という一つの思い。誰にとも分からないまま、終わらない用事。
それが、玄関に置きっぱなしの荷物のように、この人の行く手を塞いでいた。
やり残したことがあると、人は、その場に留まる。留まっているうちに、留まっていること自体を忘れる。
そういうふうに、この人は、置いていかれたのだ。
京介は、その荷物に、手をかけた。
「戸倉さん」
——はい。
「もう、渡さなくていいんです」
——でも、頼まれたから。
「頼んだ人は、あなたに用事を作っただけです。用事があれば、人は、その場から動けませんから」
——……。
「あなたは、もう、じゅうぶん働きました。お母さんのときも。そのあとも」
中で、何かが、ゆっくりと下ろされた。
荷物が、床に置かれる音がした。
そして、暖かいものが、いっせいに動きはじめた。堰を外した水のように、行くべきほうへ流れていく。
京介は、額の前で包んでいた両の手を、左右へ、ふわりと開いた。
「——還(かえ)れ」
世界が、戻った。
戸倉さんは、夜の裏道に立っていた。
その顔を、京介は見た。困った色は、もう、なかった。
「あら」戸倉さんは言った。「私、どこへ行くところだったかしら」
「向こうです」
京介は、道の先を示した。
示した先に何があるのかは、京介にも分からない。
「そう」
戸倉さんは、うなずいた。それから、思い出したように京介を見た。
「士郎さんに、よろしく」
「伝えます」
戸倉さんは、歩き出した。
右手には、もう、何も握っていなかった。
三歩、四歩と歩いて、その姿は、暗がりに溶けた。
京介は、義眼を外したままだった。
だから、見えた。
地面の下の、あの細い筋の、いちばん細いところへ。
暖かいものが、すっと、吸い込まれていくのを。
八
京介は、しばらく、そこに立っていた。
風が、冷たかった。
今度は、ちゃんと冷たかった。
義眼をはめる。腰の埋め鍼を、もとに戻す。手順は、体が覚えている。
金龍鍼を、布に包もうとした。
落とした。
乾いた音がして、金の鍼が、アスファルトの上で二度、跳ねた。
京介は、自分の右手を見た。
指は、開いたままだった。閉じようとすると、閉じる。動く。感覚もある。物に触れれば、冷たいか温かいかも分かる。
ただ、掌の真ん中が、しんと冷たい。
京介は、その手をかざして、息を吹きかけた。
白い息が、掌に当たって、散った。
真ん中のところだけ、曇らなかった。
しゃがんで、左手で鍼を拾う。土を払って、布にくるむ。
立ち上がって、もう一度、右手を握ってみた。
握れる。
試しに、上着のボタンを外して、留め直した。できる。財布を出して、しまう。できる。
だが、鍼は。
鍼を持つというのは、握ることではない。
指の腹で、鍼の先が今どこにいるかを聞く。皮膚に触れているのか、もう入っているのか。押しているのか、待っているのか。どのくらいの深さで、何に当たっているのか。その全部を、指で聞いて、掌の真ん中あたりで受け止める。
鍼灸師が「手が利く」というのは、そこのことだ。
そこが、聞こえない。
京介は、自分の右手を、しばらく見ていた。
街灯の下で、掌をひっくり返してみたり、指を一本ずつ動かしてみたりした。
変わらなかった。
こうなるだろうとは、思っていた。冷えた穴は、増える。増えれば、どこかが死ぬ。ただ、今までは、腰だった。胸だった。日常で困る場所ではなかった。
差し出す場所は、選べない。
どこに開くかは、相手の側が決める。戸倉さんは、右の掌に、荷物を持っていた。
京介は、右手をポケットに入れた。
九
帰り道は、駅の表を通った。
金曜の夜だった。膜の張ったような空の下で、駅前だけが明るい。
人が、多い。改札から吐き出された人たちが、それぞれの方向へ散っていく。笑い声がして、誰かが誰かの名前を呼んで、タクシーが列を詰めた。
誰も、足の下を見ていない。
当たり前だ、と京介は思った。自分も、昨日までそうだった。
横断歩道の手前で、京介は足を止めた。
道の向こう、居酒屋の看板の下に、龍之介がいた。
誰かと一緒だった。
背の高い、コートの男。うしろ姿しか見えない。顔は、看板の陰になっていて、まったく見えない。肩幅と、コートの丈と、立ち方だけが分かった。
立ち方が、まっすぐだった。
京介は、動かなかった。
龍之介が、何か言っている。長い。ふだんのこの子は、そんなに喋らない。
相手が、うなずいている。
それから、龍之介が、笑った。
京介は、息を止めた。
この子が笑うのを、京介は、見たことがなかった。
三年、同じ部屋にいる。記録を任せ、色を聞き、患者を任せてきた。口の端が動くのは見た。得意そうな顔も、困った顔も、悔しい顔も、青い顔も見た。
笑うところは、一度も見ていない。
信号が、青に変わった。
人が、動きだす。
京介は、動かなかった。
声をかければいい。おい、と言えば済む。友人と飲んでいただけかもしれない。用事というのは、これだったのかもしれない。年下の男が、師に見られたくない相手と飲む。それだけの話だ。
そう考えているあいだじゅう、京介は、自分がなぜ考えているのかを分かっていた。
声をかけない理由を、探しているのだ。
——なぜ。
京介は、右手を、ポケットの中で握った。
掌の真ん中が、冷たい。
もし今、声をかけて、龍之介が振り向いて、その隣の男がこちらを見たとする。
そのときこの手は、何もできない。
信号が点滅を始め、赤に戻った。人の流れが止まる。
その頃には、居酒屋の看板の下には、誰もいなかった。
十
翌朝も、雀は鳴かなかった。
京介は、いつもの時刻に起き、首をまわし、白湯を一杯飲んで、階段を降りた。
右の掌が、冷たい。腰の右の下も、冷たい。
二つになった。
暖簾を出すか出さないかのうちに、表の戸が開いた。
「先生、おはようございます」
波だ。顔色は、昨日より戻っている。手には、いつもの袋。
「昨日は、すみませんでした」
「気にするな」
「気にします。私、あそこで倒れてたら、先生、三十一人目を診るところでした」
波は、袋を置きながら続けた。
「あと、丸田さんから電話ありました。お孫さんが熱出して、そっち行ってたって。来週から来ますって。腰は、そこそこだそうです」
京介は、少しだけ、息を吐いた。
この十日で、いちばんいい報せだった。
「先生」
波が、こちらを向いた。
「今日も、脈、診させてください」
いつもの、まっすぐな目だった。京介の手首に、指が伸びてくる。
京介は——手を、引かなかった。
引く前に、出せなかった。
右手が、上着のポケットから出てこなかった。出せば、この子は触る。触れば、分かってしまう。
波の指が、途中で止まった。
止まって、京介の右腕を、肘から下へ、目でたどった。
「先生」
「なんだ」
「手」
「なんでもない」
「見せてください」
「なんでもない」
波は、それ以上、言わなかった。
言わずに、しばらく京介の顔を見ていた。それから「はい」と言って、袋の口を開けた。開ける手つきが、いつもより丁寧だった。
——ごまかせていない。
京介には、分かっていた。この子は、全部見えていて、見えたうえで、明るいほうを出す。いま何も言わないというのは、後で言うということだ。
その日の午前も、患者は途切れなかった。
京介は、左手で鍼を持った。
打てないことはない。学生の頃、両手で打てるように仕込まれている。ただ、左は右ほどには聞こえない。深さを、目と経験で補うことになる。
いつもの、半分の速さになった。
波が、それに気づかないはずがなかった。気づいて、何も言わずに、次の患者の準備を先回りして進めていた。
昼前に、電話が鳴った。
波が取って、それから、声の調子を変えた。
「……先生。お電話です」
「誰から」
波は、受話器を差し出しながら、少し困った顔をした。
「お名前を、おっしゃらないんです。ただ、代われば分かる、って」
京介は、左手で受話器を受け取った。
「……はい」
しばらく、何も聞こえなかった。
息の音だけがした。年寄りの、深い、ゆっくりした息だった。吸って、少し止めて、吐く。
京介の背中が、まっすぐになった。
その息の音を、京介は知っている。山で、十年以上、毎朝聞いていた。
「——師匠」
『手を、やったな』
京介は、答えられなかった。
なぜ分かる、とも聞けなかった。この人は、昔から、そういう人だった。
『何を還した』
「……甲です。二十日前に亡くなった方で、まだ、街を歩いていました」
『そうか』
驚かなかった。
それが、いちばん、こたえた。
「師匠。……地面の下に」
『京介』
「はい」
『山に戻れ』
京介は、窓のほうを見た。
空は、白い。今日も晴れているはずだった。日は、差してこない。
「患者が、多いんです。三十人います。明日も、その次も埋まっています」
『減るのか、それは』
京介は、答えられなかった。
減らない。今週より来週のほうが多い。それは、予約表を見れば分かる。
『減らんものを、一人で受けるな』師匠は言った。『お前の腕は、そういうふうにはできとらん』
「……」
『戻れ。話がある』
電話は、それきり切れた。
京介は、受話器を戻した。
戻してから、右手をポケットから出して、掌を上に向けて、しばらく見ていた。
真ん中のところだけが、しんとしている。
顔を上げると、波が、待合の入口に立って、こちらを見ていた。
龍之介は、まだ来ていなかった。
序
夜の道を、歩いている。
どこへ行くのか、自分でもよく分からない。ただ、足のほうが先に決めている。曲がるべきところで、勝手に曲がる。まかせておけば、そのうち着く。そういう気がしている。
右の手に、白くて丸いものを握っている。掌にのるくらいの。いつから握っているのかは、思い出せない。
渡さないと、と思う。
誰に、とは出てこない。けれど、渡さないといけない。それだけは、はっきりしている。
見覚えのある角を曲がった。
曲がってから、そこが自分の家の前だと気づく。門柱に、自分の名字が出ている。母が生きていた頃に彫り直した、少し大きすぎる表札だ。
窓は、暗い。
足は、止まらなかった。
通り過ぎて、また次の角へ向かう。おかしいとは、なぜか思わなかった。
顔を上げる。街灯は、まばらだ。
——それなのに、道が明るい。
上からではない。
下から。アスファルトの、その下のあたりが、うっすらと明るい。
こんなもの、前はなかった。
それから、もうひとつ、思う。
風が吹いている。かなり、冷たい風だ。
——寒くない。
寒くないのは、おかしい。
一
雀が、鳴いていない。
泉京介は、布団の中で、そのことに気づいた。
目が覚めたのは、いつもの時刻だった。カーテンの向こうも、いつもどおり白んでいる。ただ、軒先の電線のあたりが、静かだった。朝礼が、始まらない。
起き上がって、窓を開けた。
空が、白い。
曇っているのとは違う。膜が一枚張ったような、平たい白さだった。この十日ほど、ずっとこれだ。天気予報は晴れと言っている。晴れているのだろう。日は、どこにも見当たらない。
通りの向かいで、新聞を取りに出てきた家の人が、玄関先で立ち止まっていた。空を見ている。しばらく見て、それから首をかしげて、家に入っていった。
京介は、窓を閉めた。
首をまわす。右、左。肩を上げ下げして、腰を軽くひねる。
腰の右の下が、冷たい。
一か月半になる。もう、驚かない。湯につかっても灸をすえても動かないことは、とっくに確かめた。冷えた穴とは、そういうものだ。何にも反応しない。増えたときに一度だけ痛んで、あとはただ、そこにある。
白湯を一杯。階段を降りる。
「先生」
波が、すでに来ていた。暖簾より先に来ている。
手に予約表を持って、めずらしく、笑っていなかった。
「今日、三十人です」
京介は、湯呑みを置いた。
「……三十」
「三十一かもしれません。さっきも電話が鳴ってました。留守電、入ってます」
予約表を受け取る。びっしり埋まっている。書き込む欄が足りなくて、波が余白に縦書きで足していた。
名前の半分は、知らない名前だった。
「この、上のほうの三人」
「昨日の飛び込みです。駅二つ向こうから来たって」
「二つ向こうにも、鍼灸院はあるだろう」
「そこも、いっぱいだそうです」
京介は、予約表をもう一度上から見た。
二十代。四十代。七十代。子どもの名前もある。住所も、職業も、ばらばらだった。共通しているものが、見当たらない。
「丸田さんは」
「入ってません」
週に二度、必ず来る人だ。腰の様子を見せに来て、孫の話をして帰る。その名前が、今週、一度もない。
「電話は」
「してません。……したほうがいいですか」
京介は、少し迷って、「いや」と言った。忙しさで頭が回らなかったのだと、あとで思う。
波は、京介の顔をしばらく見ていた。それから、ふっと明るい声を作った。
「大丈夫です。私、今日は走ります」
「走らなくていい」
「走ります。先生が三十人診るのは無理なので、私が下ごしらえします」
波は、袖をまくりながら、奥へ入っていった。
まくった腕が、細かった。
二
午前だけで、十四人が来た。
全員が、ほとんど同じことを言った。
眠れない。眠っても、眠った気がしない。朝、起きられない。夕方になると動悸がする。体が重い。だるい。理由がない。病院で調べたが、どこも悪くないと言われた。
三十代の会社員は、「電車の中で、急に息が浅くなる」と言った。七十代の主婦は、「夜中に三度、目が覚める。目が覚めると、耳鳴りがしている」と言った。高校生の男の子は、母親に連れられて来て、うつむいたまま、「怖い夢を、毎晩見ます」と言った。どんな夢か聞くと、「覚えてないんですけど、怖かったことだけ覚えてます」と答えた。
赤ん坊を抱いた母親は、こう言った。
「この子は、元気なんです。よく寝るし、よく飲むし。……私だけなんです」
京介は、一人ずつ脈を診た。
診るたびに、指先の手応えが、少しずつ似てくる。
どの脈も、悪くはない。速すぎもしないし、遅すぎもしない。ただ、どれも、うわずっている。上のほうで細かく震えていて、深いところに下りていかない。指で追いかけると、するりと逃げる。
——地に足がついていない。
鍼灸師の言い方ではない。けれど、指がそう言っていた。
そして、もうひとつ、京介が気づいたことがある。
誰も、「痛い」と言わない。
肩が痛い、腰が痛い、膝が痛い——この十五年、京介が聞いてきた言葉の九割はそれだった。それが、今日は一度も出てこない。
痛みではないのだ。
昼をまわった頃には、京介は、一人にかけられる時間を半分に削っていた。
問診を短くする。世間話を切る。鍼の本数を減らす。終わったら、すぐ次を呼ぶ。
三人目あたりで、自分が何をしているのか気づいて、京介は手を止めた。
この十五年、京介は、一人を丁寧に診ることだけをやってきた。話を聞く。指で読む。時間をかける。それが仕事のほとんどだった。「あそこの先生にかかると、なんだか体が軽くなる」と年寄りたちが言うのは、腕の話であると同時に、そこにかけた時間の話でもある。
それが、できていない。
流れ作業になっている。
「先生」
龍之介が、記録の手を止めて、こちらを見ていた。
「なんだ」
「色が」龍之介は言った。「みんな、同じです」
「同じ、というのは」
「薄いんですけど、全員、同じ薄さなんです」龍之介は、記録用紙の端を指で折っていた。落ち着かないときの癖だった。「ふつうは、違うんです。疲れてる人と、悩んでる人と、体が弱ってる人とでは、薄さの出方が違う。にじみ方も、抜け方も違う。……今日の人たちは、判で押したみたいに、同じところが、同じだけ、抜けてます」
「昨日は」
「昨日も、少しそうでした。おとといは、そこまでじゃなかったです」
京介は、次の患者のカルテを見た。
「先生、これ、何が起きてるんですか」
京介は、答えなかった。
答えられなかった、というほうが正しい。
人の体に起きることなら、たいていは説明がつく。仕事、季節、加齢、心配ごと、寝る前の画面。三十人が同じ形に薄くなる理由は、そのどれでもない。
「……分からない」
言ってから、京介は、その言葉の重さに自分で驚いた。
龍之介も、驚いた顔をしていた。この人が分からないと言うのを、聞いたことがなかったのだろう。
その日の最後から二人目の患者を送り出したところで、うしろで音がした。
波が、施術台の角に手をついていた。ついた手が、滑っていた。
「波」
「……あ、すみません。ちょっと、立ちくらみ」
波の顔から、色が抜けていた。額に、汗が浮いている。この子は、患者の体に溜まった重たいものを、自分の体に吸い取ってしまう。だから触ると患者は軽くなり、そのかわり、あとで咳が出る。
今日は、朝から一度も咳をしていない。
「咳は」
「……出ないです」
「出ないのか」
「出ません。なんか、出そうで、出なくて」波は、胸のあたりを掌でさすった。「ここまで来て、止まってる感じです」
吸ったものが、外へ出ていっていない。全部、中に溜まっている。
「帰りなさい」
「まだ一人」
「帰りなさい」
波は、めずらしく、逆らわなかった。
それがいちばん、こたえた。
三
最後の患者を送り出したあと、電話が鳴った。
士郎だった。
「京介。今、いいか」
「ああ」
受話器の向こうで、コーヒーミルの音が止まった。閉店後の店で、片づけをしながらかけているのだろう。
「……戸倉さんな」
京介は、少し考えて、思い出した。士郎の店の常連だ。一か月ほど前、士郎が「先週から店に来てない」と言っていた人。あのとき士郎は、痩せた、とも言った。
「その人が、どうかしたか」
受話器の向こうで、士郎が、息を吸った。
「先月、葬式が済んでる」
京介は、受話器を持ち直した。
「……いつだ」
「二十日ほど前だ。俺も行った」
「なぜ、言わなかった」
「言えるか」士郎の声が、少し荒かった。「お前に牧野さんのことを頼んで、駄目だったばかりだ。そのうえ、もう一人は死にましたなんて、言えるか」
京介は、何も言えなかった。
士郎が黙るときは、たいてい何かある。今度のそれは、京介への気遣いだった。それが分かるだけに、余計に始末が悪い。
「……人は、来てたか」
「少なかったな」士郎は言った。「あの人、長いこと母親の介護をしててな。それで、ずっと家にいた。看取ってから、うちに来るようになった。……知り合いを作り直す時間が、なかったんだろう」
京介は、目を閉じた。
「それで、なんで今、言ったんだ」
「木曜の午後に来る人がいるだろう。化粧の濃い」
「……ああ」
牧野が、渡すつもりだと言っていた相手の一人だ。士郎には、あの人から何をもらっても受け取るなと伝えてある。
「あの人が、今日、青い顔して来てな」士郎は言った。「先週の夜、駅の裏で、戸倉さんを見たと言うんだ」
「見間違いだろう」
「俺もそう言った。似た人だろう、暗かったんだろう、と。……そしたら、あの人がなんて言ったと思う」
「なんて」
「『声、かけたんです』」
京介は、窓のほうを見た。もう暗い。膜の張ったような空が、そのまま夜になっていた。
「返事があったと言うんだ。ちゃんと。こんばんは、って」
「……」
「向こうも足を止めて、こっちを見て、こんばんは、って言ったそうだ。それで、そのまま行っちまったと。あの人は、そのまま歩いて帰った。家に着いて、鍵を開けて、上がって、それで、思い出したんだと」
士郎は、そこで一度、黙った。
「そのとき初めて、あれ、あの人お葬式済んでるよね、って」
京介は、受話器を握ったまま、動かなかった。
「葬式、俺も行ったんだぞ」士郎が、低く言った。「顔も見た」
四
夜の九時を過ぎてから、京介は院を出た。
波は帰した。あの子を連れていくわけにはいかない。
龍之介には、声をかけた。
「今夜、少し出る。付き合え」
龍之介は、コートの袖に腕を通しかけたまま、止まった。
「……どちらへ」
「駅の裏だ」
二秒ほど、間があった。
「すみません。今日は、用事があって」
この子が断るのは、初めてだった。
京介は、その顔を見た。龍之介は、目を合わせなかった。記録の束を、きれいに角を揃えて、鞄に入れている。ふだんどおりの手つきだった。ふだんどおりすぎた。
「……用事か」
「はい」
それ以上は、聞かなかった。二十四の男に用事があって、何がおかしい。
「分かった」
戸を閉めるとき、うしろで龍之介が「先生」と言った。
「なんだ」
龍之介は、鞄の持ち手を握っていた。
「……気をつけてください」
駅の裏は、飲み屋の裏口と、月極の駐車場と、シャッターの下りた小さな工場が並んでいる一角だった。
昼はそれなりに人が通る。夜は、店の裏口から出てくる従業員が煙草を吸っているくらいだ。灯りは、自動販売機と、駐車場の隅の外灯だけ。
京介は、その道を、端から端まで、ゆっくり歩いた。
三百歩ほどの距離だった。
一度往復した。何も起きなかった。左手を上着の内に入れて、布にくるんだ鍼の位置を確かめる。それだけの往復だった。
二度目の、半ばで、足を止めた。
止めてから、なぜ止めたのか、しばらく分からなかった。
音がしたわけではない。何かが見えたわけでもない。ただ、体のどこかが「ここだ」と言った。
京介は、しゃがんで、靴の紐を結び直すふりをした。
指が動いているあいだ、意識を足の裏に置く。診るときと同じだ。指に意識を集めて、余計なものを黙らせる。
——熱い。
地面が、というより、靴底の向こう側が、かすかに熱い。
温泉の湯脈の上に立ったときのような、と言えば近い。ただし温度は、ずっと低い。人肌より、ほんの少し高いくらいだ。
立ち上がって、三歩、下がってみる。
消えた。
三歩、戻る。
ある。
もう三歩、進む。
まだ、ある。少し弱い。
京介は、その場に立って、あたりを見た。
駐車場のフェンス。自動販売機の低い唸り。閉まったシャッター。捨てられた傘。何もない。どこにでもある、夜の裏道だった。
そして、そこだけが、暖かかった。
五
京介は、左手を、義眼に当てた。
外すのは、久しぶりだった。
この目を開ければ、見えなくていいものまで見える。だから塞いでいる。塞いだまま生きるのが、京介の日常のほうだった。
あたりを見まわす。街灯の光が届かない場所だ。人はいない。
外した。
塞いでいたものが、開く。
——見えた。
京介は、片膝をついた。
膝が、勝手に折れた。
アスファルトに、掌をつく。
その下に、光の筋が走っていた。
太いものが、一本。そこから細く枝分かれしたものが、いくつも。京介の立っている場所を、駅のほうから川のほうへ、斜めに横切っていく。
灯りではない。熱でもない。人の体に指を当てたときに、指のほうが読むもの——あれと、同じものだった。
流れている。
脈と同じように。経絡と同じように。速さがあり、向きがあり、深さがある。
道の下を。街の下を。この街よりも遥かに大きな何かが、流れている。
京介は、掌を離せなかった。
四十二年生きて、鍼を十五年打って、人の体の中を流れるものを毎日読んできた。それが人の中だけの話ではないなどと、誰も教えてくれなかった。
——いや。
教えられなかったのではない。誰にも、見えていなかったのだ。
京介は、掌を、少し横へずらした。
太い筋の真上に重ねる。
指が、痺れた。痺れは肘まで上がってきて、そこで止まった。
そして、気づいた。
細い。
太いほうの筋も、指二本ぶんほどの幅しかない。まわりに散っている枝は、糸のようだ。触れれば切れそうな細さだった。
これがどれくらいの太さであるべきなのか、京介は知らない。比べるものがない。今日初めて見たものだ。
それでも、分かった。
人の脈を毎日読んでいれば、分かる。細っているものと、もともと細いものとは、手応えが違う。これは、痩せている。前はもっと太かったものが、絞られている。
——経絡は、十二本と決まっている。
京介は、掌をついたまま、声に出さずに数えた。
肺から始めて、肝で終わる。十二。奇経を足しても、この場所を、この向きに走るものはない。
これは、何番目だ。
背後で、砂利を踏む音がした。
六
京介は、立ち上がりながら、義眼をはめた。
視界から光の筋が消える。ただの夜の裏道に戻った。
その道を、人が歩いてくる。
小柄な、年配の女性だった。厚手のカーディガンを羽織って、下は普段着のスカート。足元はサンダルに近い靴だ。近所のコンビニに出るような格好だった。
夜の九時半に、駐車場の裏を歩く格好ではない。
「こんばんは」
京介は、そう言った。
「こんばんは」
返事があった。
声に、張りがある。目が、合った。歩き方に、ふらつきがない。
息が、白い。
京介は、自分の指先が冷たくなっているのに気づいた。
「戸倉さん、でしょうか」
「はい」女性は、少し首をかしげた。「……どちらさま」
「泉といいます。士郎さんの、友人で」
「まあ。士郎さんの」
戸倉さんの顔が、ほころんだ。
ほころび方が、自然だった。知らない土地で知っている店の名前を聞いた、という顔だった。
「あの店は、いいでしょう。私、母を看取ってから、ずっと通ってて」
「ええ」
「先生、あそこの砂糖壺、ご存じ? 蓋が欠けてるの。ずっと直さないの。何度も言ったんですけどね、士郎さんが『まだ使える』って」
「……士郎らしい」
「そうなんですよ。あの人、けちなんじゃなくて、物が減るのが嫌なだけ」
戸倉さんは、口元に手を当てて笑った。
京介は、うなずいた。
喋る。よく喋る。生きた人が喋るように喋る。話が繋がるし、間も合っている。士郎から聞いた話とも矛盾しない。
だからこの時点で、京介はまだ、半分は、木曜の午後の人の見間違いを疑っていた。
「戸倉さん。こんな時間に、どちらへ」
「あら」
戸倉さんは、そこで止まった。
止まって、自分の右手を見た。
白い、丸い容器を握っていた。
「……渡さないと」
「どなたに」
「……」
「戸倉さん。どなたに、渡すんです」
戸倉さんは、容器を見たまま、答えなかった。
答えられないのではない。困っているのでもない。ただ、その質問が、通じていなかった。壁に向かって話しかけているのと、同じだった。
「それは、どこで」
「もらったんです」
「いつ」
「……」
京介は、上着の内から、布にくるんだ鍼を出した。
金龍鍼を、戸倉さんの首の付け根に、そっとかざす。
金が。
——ほの暗く、曇った。
冷えたのではない。匂ったのでもない。掌の中で、金の色が、すっと沈んだ。夜の色を吸い込んだように。
京介は、鍼を下ろした。
泉の家は、昔から、魔物に十干をふる。甲(こう)、乙(おつ)、と。
甲は、もと人間だ。
この鍼が曇るのは、そういうときだった。
「戸倉さん」京介は言った。「もう、渡さなくていいんですよ」
戸倉さんは、京介を見た。
初めて、その顔に、困った色が浮かんだ。
「でも、頼まれたから」
「誰に頼まれたか、覚えていますか」
「……」
「戸倉さん」
京介は、声を落とした。落とすと、温度が抜けた。
「あなたは、二十日前に、お葬式が済んでいます」
風が吹いた。
自動販売機の脇で、捨てられた傘が、からりと倒れた。
戸倉さんのカーディガンの裾は、揺れなかった。
七
京介は、左の義眼に指を当て、外した。
背に手を回し、腰の上に埋めた鍼を、抜く。
抑え込んでいた熱が、体の芯から満ちた。
金龍鍼を両の掌で包み、額の前へ捧げる。
「——足(た)りたり。執(しゅう)を解(と)き、咎(とが)を捨(す)てて、本(もと)つ処(ところ)へ還(かえ)りませ」
もう、いい。じゅうぶん、がんばった。帰ろう。
襟をくつろげ、自分の首の付け根に、金龍鍼を当てる。そこを、開いた。
世界が、裏返った。
——中は、暖かかった。
京介は、息を呑んだ。
安藤洋子の中は、家具を運び出したあとの部屋だった。牧野の中には、部屋そのものがなかった。
戸倉さんの中には、ものが、たくさんあった。
母の手の重さ。持ち上げるときの、脇の下の骨の感じ。夜中に何度も起きて、そのたびに歩いた廊下の冷たさ。三年目からは電気をつけなくても歩けるようになったこと。看取った朝の、窓の色。窓を開けたら、外がやけに普通だったこと。
それから——
蓋の欠けた砂糖壺。冬の窓。向かいの空いた席。士郎が何も言わずにコーヒーを置いていく、あの置き方。二杯目を頼まなくても出てくること。
全部、残っていた。
京介の胸の奥が、詰まった。
牧野は、生きていた。生きていて、中には何もなかった。
この人は、死んでいる。死んでいて、こんなに持っている。
——順番が、逆だ。
いや、逆ではない。
この人は、抜かれ切る前に、死んだのだ。
それだけの違いだった。それだけの違いで、こちらは残り、あちらは残らなかった。
京介は、その暖かいものの中を、探した。
これだけ残っているのに、なぜ、この人は還っていないのか。
あった。
いちばん手前に、それだけが、場違いに置いてある。
白い、丸い、容器の重さ。
渡さないと、という一つの思い。誰にとも分からないまま、終わらない用事。
それが、玄関に置きっぱなしの荷物のように、この人の行く手を塞いでいた。
やり残したことがあると、人は、その場に留まる。留まっているうちに、留まっていること自体を忘れる。
そういうふうに、この人は、置いていかれたのだ。
京介は、その荷物に、手をかけた。
「戸倉さん」
——はい。
「もう、渡さなくていいんです」
——でも、頼まれたから。
「頼んだ人は、あなたに用事を作っただけです。用事があれば、人は、その場から動けませんから」
——……。
「あなたは、もう、じゅうぶん働きました。お母さんのときも。そのあとも」
中で、何かが、ゆっくりと下ろされた。
荷物が、床に置かれる音がした。
そして、暖かいものが、いっせいに動きはじめた。堰を外した水のように、行くべきほうへ流れていく。
京介は、額の前で包んでいた両の手を、左右へ、ふわりと開いた。
「——還(かえ)れ」
世界が、戻った。
戸倉さんは、夜の裏道に立っていた。
その顔を、京介は見た。困った色は、もう、なかった。
「あら」戸倉さんは言った。「私、どこへ行くところだったかしら」
「向こうです」
京介は、道の先を示した。
示した先に何があるのかは、京介にも分からない。
「そう」
戸倉さんは、うなずいた。それから、思い出したように京介を見た。
「士郎さんに、よろしく」
「伝えます」
戸倉さんは、歩き出した。
右手には、もう、何も握っていなかった。
三歩、四歩と歩いて、その姿は、暗がりに溶けた。
京介は、義眼を外したままだった。
だから、見えた。
地面の下の、あの細い筋の、いちばん細いところへ。
暖かいものが、すっと、吸い込まれていくのを。
八
京介は、しばらく、そこに立っていた。
風が、冷たかった。
今度は、ちゃんと冷たかった。
義眼をはめる。腰の埋め鍼を、もとに戻す。手順は、体が覚えている。
金龍鍼を、布に包もうとした。
落とした。
乾いた音がして、金の鍼が、アスファルトの上で二度、跳ねた。
京介は、自分の右手を見た。
指は、開いたままだった。閉じようとすると、閉じる。動く。感覚もある。物に触れれば、冷たいか温かいかも分かる。
ただ、掌の真ん中が、しんと冷たい。
京介は、その手をかざして、息を吹きかけた。
白い息が、掌に当たって、散った。
真ん中のところだけ、曇らなかった。
しゃがんで、左手で鍼を拾う。土を払って、布にくるむ。
立ち上がって、もう一度、右手を握ってみた。
握れる。
試しに、上着のボタンを外して、留め直した。できる。財布を出して、しまう。できる。
だが、鍼は。
鍼を持つというのは、握ることではない。
指の腹で、鍼の先が今どこにいるかを聞く。皮膚に触れているのか、もう入っているのか。押しているのか、待っているのか。どのくらいの深さで、何に当たっているのか。その全部を、指で聞いて、掌の真ん中あたりで受け止める。
鍼灸師が「手が利く」というのは、そこのことだ。
そこが、聞こえない。
京介は、自分の右手を、しばらく見ていた。
街灯の下で、掌をひっくり返してみたり、指を一本ずつ動かしてみたりした。
変わらなかった。
こうなるだろうとは、思っていた。冷えた穴は、増える。増えれば、どこかが死ぬ。ただ、今までは、腰だった。胸だった。日常で困る場所ではなかった。
差し出す場所は、選べない。
どこに開くかは、相手の側が決める。戸倉さんは、右の掌に、荷物を持っていた。
京介は、右手をポケットに入れた。
九
帰り道は、駅の表を通った。
金曜の夜だった。膜の張ったような空の下で、駅前だけが明るい。
人が、多い。改札から吐き出された人たちが、それぞれの方向へ散っていく。笑い声がして、誰かが誰かの名前を呼んで、タクシーが列を詰めた。
誰も、足の下を見ていない。
当たり前だ、と京介は思った。自分も、昨日までそうだった。
横断歩道の手前で、京介は足を止めた。
道の向こう、居酒屋の看板の下に、龍之介がいた。
誰かと一緒だった。
背の高い、コートの男。うしろ姿しか見えない。顔は、看板の陰になっていて、まったく見えない。肩幅と、コートの丈と、立ち方だけが分かった。
立ち方が、まっすぐだった。
京介は、動かなかった。
龍之介が、何か言っている。長い。ふだんのこの子は、そんなに喋らない。
相手が、うなずいている。
それから、龍之介が、笑った。
京介は、息を止めた。
この子が笑うのを、京介は、見たことがなかった。
三年、同じ部屋にいる。記録を任せ、色を聞き、患者を任せてきた。口の端が動くのは見た。得意そうな顔も、困った顔も、悔しい顔も、青い顔も見た。
笑うところは、一度も見ていない。
信号が、青に変わった。
人が、動きだす。
京介は、動かなかった。
声をかければいい。おい、と言えば済む。友人と飲んでいただけかもしれない。用事というのは、これだったのかもしれない。年下の男が、師に見られたくない相手と飲む。それだけの話だ。
そう考えているあいだじゅう、京介は、自分がなぜ考えているのかを分かっていた。
声をかけない理由を、探しているのだ。
——なぜ。
京介は、右手を、ポケットの中で握った。
掌の真ん中が、冷たい。
もし今、声をかけて、龍之介が振り向いて、その隣の男がこちらを見たとする。
そのときこの手は、何もできない。
信号が点滅を始め、赤に戻った。人の流れが止まる。
その頃には、居酒屋の看板の下には、誰もいなかった。
十
翌朝も、雀は鳴かなかった。
京介は、いつもの時刻に起き、首をまわし、白湯を一杯飲んで、階段を降りた。
右の掌が、冷たい。腰の右の下も、冷たい。
二つになった。
暖簾を出すか出さないかのうちに、表の戸が開いた。
「先生、おはようございます」
波だ。顔色は、昨日より戻っている。手には、いつもの袋。
「昨日は、すみませんでした」
「気にするな」
「気にします。私、あそこで倒れてたら、先生、三十一人目を診るところでした」
波は、袋を置きながら続けた。
「あと、丸田さんから電話ありました。お孫さんが熱出して、そっち行ってたって。来週から来ますって。腰は、そこそこだそうです」
京介は、少しだけ、息を吐いた。
この十日で、いちばんいい報せだった。
「先生」
波が、こちらを向いた。
「今日も、脈、診させてください」
いつもの、まっすぐな目だった。京介の手首に、指が伸びてくる。
京介は——手を、引かなかった。
引く前に、出せなかった。
右手が、上着のポケットから出てこなかった。出せば、この子は触る。触れば、分かってしまう。
波の指が、途中で止まった。
止まって、京介の右腕を、肘から下へ、目でたどった。
「先生」
「なんだ」
「手」
「なんでもない」
「見せてください」
「なんでもない」
波は、それ以上、言わなかった。
言わずに、しばらく京介の顔を見ていた。それから「はい」と言って、袋の口を開けた。開ける手つきが、いつもより丁寧だった。
——ごまかせていない。
京介には、分かっていた。この子は、全部見えていて、見えたうえで、明るいほうを出す。いま何も言わないというのは、後で言うということだ。
その日の午前も、患者は途切れなかった。
京介は、左手で鍼を持った。
打てないことはない。学生の頃、両手で打てるように仕込まれている。ただ、左は右ほどには聞こえない。深さを、目と経験で補うことになる。
いつもの、半分の速さになった。
波が、それに気づかないはずがなかった。気づいて、何も言わずに、次の患者の準備を先回りして進めていた。
昼前に、電話が鳴った。
波が取って、それから、声の調子を変えた。
「……先生。お電話です」
「誰から」
波は、受話器を差し出しながら、少し困った顔をした。
「お名前を、おっしゃらないんです。ただ、代われば分かる、って」
京介は、左手で受話器を受け取った。
「……はい」
しばらく、何も聞こえなかった。
息の音だけがした。年寄りの、深い、ゆっくりした息だった。吸って、少し止めて、吐く。
京介の背中が、まっすぐになった。
その息の音を、京介は知っている。山で、十年以上、毎朝聞いていた。
「——師匠」
『手を、やったな』
京介は、答えられなかった。
なぜ分かる、とも聞けなかった。この人は、昔から、そういう人だった。
『何を還した』
「……甲です。二十日前に亡くなった方で、まだ、街を歩いていました」
『そうか』
驚かなかった。
それが、いちばん、こたえた。
「師匠。……地面の下に」
『京介』
「はい」
『山に戻れ』
京介は、窓のほうを見た。
空は、白い。今日も晴れているはずだった。日は、差してこない。
「患者が、多いんです。三十人います。明日も、その次も埋まっています」
『減るのか、それは』
京介は、答えられなかった。
減らない。今週より来週のほうが多い。それは、予約表を見れば分かる。
『減らんものを、一人で受けるな』師匠は言った。『お前の腕は、そういうふうにはできとらん』
「……」
『戻れ。話がある』
電話は、それきり切れた。
京介は、受話器を戻した。
戻してから、右手をポケットから出して、掌を上に向けて、しばらく見ていた。
真ん中のところだけが、しんとしている。
顔を上げると、波が、待合の入口に立って、こちらを見ていた。
龍之介は、まだ来ていなかった。
身体の内で、陰と陽の釣り合いそのものが狂う怪異を指します。ただしこの型は、ひとりの体に起きるとはかぎりません。同じ崩れが、同じ形で、いくつもの体に現れたとき——それはもう、その人たちだけの話ではなくなっている。施術家が指先で感じ取る「説明のつかぬ冷え」が、どこまで広がりうるか。本作はその領域を、依代師ユニバースの視点から描いた一篇です。