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依
依代集

繋ぎ手

― 土に手をついた。左だけが、応えた。 ―
著 / 研一 恐 ★★★★☆ 約 11,100 字 / 読了 約 19 分 現代奇譚
陰

序

沢の水は、去年と同じだけ流れていた。

男は、桶を持って、いつもの石の上にしゃがむ。四十年、同じ石だ。膝の当たるところが、少しへこんでいる。

桶を沈める。手首まで浸かる。

——冷たさが、遅い。

浸けてしばらく経ってから、ようやく指の先が冷えてくる。前は違った。入れた瞬間に、骨まで来た。この沢はそういう沢だった。夏でも、手を入れて十数えられなかった。

男は、桶を引き上げて、耳をすませた。

音が、低い。

水の量は変わっていない。石の並びも、去年のままだ。それなのに、音だけが一段下りている。喉の奥で鳴っているような、鈍い音になっている。

年だな、と男は思った。耳が遠くなったのだろう。八十を過ぎれば、そういうこともある。

桶を担いで、立ち上がった。

背中の向こうで、音が、もう一段、下がった。

一

暖簾を、出さない。

その朝、泉京介は、たたきに立って、しばらく暖簾を見ていた。それから、たたんで、下駄箱の上に置いた。

表の戸に紙を貼る。一週間の休診。理由は書かなかった。

貼り終えたところで、後ろから声がした。

「先生」

丸田さんだった。米屋の。予約は明日のはずだ。

「早いですね」

「いや、通りかかっただけでね」丸田さんは紙を見て、それから京介を見た。「一週間か」

「すみません」

「かまわんよ。腰は、そんなに急がん」丸田さんは笑って、それから、京介の右手のあたりを見た。「手、どうしたの」

京介の右手は、ポケットの中にあった。

いつからそうしているのか、自分でも思い出せない。三日前からだ。掌の真ん中に穴が開いてから、手をどこに置いていいか分からなくなった。垂らしておくと、指が勝手に開く。膝に置くと、そこだけ温度がないのが分かる。

「少し、痛めまして」

「そりゃいかん。鍼、持てるんか」

「持てます」

嘘だった。

丸田さんは何か言いかけて、やめた。この人はそういうところがある。聞いていいところと、いけないところを、体で知っている。

「じゃあ、来週な」

「はい」

「先生」丸田さんは、二歩行ってから振り返った。「うちの婆さんがね、こないだから、やたら寝るんだ」

京介は、顔を上げた。

「寝れんのなら心配だけど、寝すぎるのは、いいことなんだろうか」

「……お帰りになったら、少し、お話を聞かせてください」

「ああ、そんな大層な話じゃないよ。じゃ、また」

丸田さんが行ってしまってから、京介はしばらく戸の前に立っていた。

朝が、少し冷えるようになっていた。

戸が開いた。

「せんせーっ、おはようございますっ!」

波だった。両手にコンビニの袋。休診の紙を見て、目を丸くして、それから、いつもの顔に戻った。

「あ。休みなんですね」

「そうだ」

「言ってくださいよ。おにぎり、二個も買っちゃった」

波は袋を提げたまま、たたきに上がってきた。それから、京介の前で足を止めた。

「先生」

「なんだ」

「手、ですよね」

京介は、答えなかった。

波は袋を床に置いて、まっすぐ京介を見ていた。笑っていなかった。この子が笑っていない顔を、京介は年に何度も見ない。

「一昨日から、右手、ずっとポケットです。昨日、左手で打ってました。丸田さんの前だけ、右手を出しました。丸田さんが帰ったら、またしまいました」

「見ていたのか」

「見てました」

「なぜ言わない」

波は、少しだけ、笑った。

「言わなかったのは、先生が、言わないでほしそうだったからです」

京介は、息を吐いた。

この子の明るさは、選んでいるものだ。知っていて、京介は毎回、同じところで足を取られる。

「山へ行く」と京介は言った。「一週間だ」

「山」

「師匠のところだ」

波は、袋を拾い上げた。それから、おにぎりを一つ、京介に押しつけた。

「私も、行きます」

二

龍之介は、来なかった。

昼前に電話が一本あった。

「今日は、用事があって」

「そうか」

「すみません」

「いや」

少し間があった。何か言いかけている間だった。京介は待った。

「……失礼します」

切れた。

波が受話器を置いて、こちらを見た。何か言いたそうだったが、言わなかった。京介も聞かなかった。

——先週も、同じ言葉だった。

列車に乗ったのは、昼過ぎだった。三時間ほどかかる。

波は最初のうち、窓の外を指さして「あれ何ですか」「あそこ行ったことあります」と喋っていたが、山が近づくにつれて口数が減って、途中から寝た。

寝顔は、起きているときより、少しだけ疲れて見えた。

京介は、膝の上の右手を見ていた。ポケットから出して、掌を上に向けて置いてある。誰も見ていない場所でだけ、そうする。

真ん中に、色がない。

義眼をしているから、視えてはいない。ただ、そこに何もないことは、皮膚が知っている。指先で押してみても、押されたという事実だけが、周りの皮膚から遠回りに伝わってくる。

左の指で、穴の縁をなぞった。

縁から内側が、ない。

終点でバスに乗り換えた。乗客は三人だった。四十分揺られて、また終点で降りた。

降りるとき、運転手が、料金箱の上から二人を見た。

「上まで、行くの」

「はい」

「このごろ、上に行く人が多いね」

運転手はそれだけ言って、扉を閉めた。バスは、来た道を戻っていった。

そこから先は、歩きだ。

舗装が切れる。土になる。

その瞬間に、京介は足を止めた。

——足の裏が、違う。

街では、熱かった。駅の裏でアスファルトに掌をついた夜、足の裏が焼けるように熱かった。

ここは、熱くない。

温かい。じんわりと、下から上がってくる。

広い。

「先生」波が横で立ち止まった。「なんか、楽です」

「楽?」

「胸のあたりが。すうっとします」

波は二、三度、深く息を吸った。それから、咳をしようとして——出なかった。

「あれ」

もう一度、喉を鳴らしてみている。

「出ないです」

波の顔色は、いい。

登り始めて一時間ほどで、道が細くなった。杉が両側から迫って、日が落ちる。地面が、しっとりと湿ってきた。

京介は、道の端にしゃがんだ。

右のポケットから、手を出す。

土に、両の掌をついた。

左には、来た。

じんわりと、下から。温かいものが掌に集まってくる。

右には、何も来なかった。

三

京介は、しばらくそのままでいた。

右の掌を、押しつけてみる。指を広げて、面をつける。手首を返して、角度を変える。

何も来ない。

左を離して、右だけにしてみた。

土の冷たさは分かる。小石が当たっている感触も、湿った落ち葉が指のあいだに入る感じも分かる。皮膚は、ちゃんと働いている。

ただ、その下を通っているものが、まったく来ない。

——掌の真ん中から、入ってこない。

京介は、左の手を、右の掌に重ねた。

重ねても、何も変わらなかった。

波が、少し離れたところで、こちらを見ていた。近づいてこなかった。

京介は、左の指で、義眼にふれた。

外す。

左の眼窩の奥で、眠っていた目が覚める。

とたんに、山が変わった。

杉の影がいっせいに濃くなる。空気に層が見える。木の一本一本の輪郭に、うすい色が滲んでいる。街では、人の輪郭にしか色を見なかった。ここでは、木にも、岩にも、道にもある。

京介は、しばらく息を止めていた。

こんなに濃い場所を、忘れていた。

もう一度、両の掌を土につけた。

視えた。

斜面の下を、光の筋が通っている。

太い。街で見たものとは比べものにならない。駅の裏で見たあれは、この道の脇を流れる細い水路のようなものだった。これは、川だ。

速さがある。向きがある。深さがある。掌の下、二尺か三尺のところを、下から上へ、ゆっくりと、途切れずに通っている。

——だが。

京介は、筋の縁を目で追った。

両側に、跡がある。

いまの筋の外側に、色の違う帯が残っている。乾いた川床のような、水の引いたあとの、白っぽい帯だ。左右に、それぞれ筋と同じくらいの幅がある。

前は、そこまで満ちていた。

いまは、真ん中だけを流れている。

細い。

京介は、そこで、動けなくなった。

駅の裏で掌をついた夜のことを、思い出していた。

京介は、右の掌を見た。

義眼を外しているから、いまは視える。掌の真ん中に、色のない一点がある。周りの皮膚は生きているのに、そこだけが、切り抜いたように何もない。

差し出したのは、三日前だ。戸倉さんが荷物を持っていた側の掌に、開いた。

差し出す場所は、選べない。相手の側が決める。

——差し出した場所が、いま、要る場所だった。

背筋が、すっと冷えた。

左手で打てばいい。三日のあいだ、そう数えてきた。

京介は、左の掌を、目の前に持ち上げた。

まだ、何もない。生きた色が、指の先まで通っている。

しばらく、それを見ていた。

義眼をはめた。

視界が半分に戻る。ふたをするように。

立ち上がって、右手をポケットに入れた。

波が、まだこちらを見ていた。

その波の視線が、京介の肩越しに、上へ動いた。

道の上のほうから、人が下りてきていた。

四

総本山、と呼んでいる。

実際には、門も塀もない。杉を抜けたところに平地があって、古い建物が四棟、間を置いて建っている。屋根は葺き替えたばかりらしく、そこだけ新しい。畑がある。物干しに、洗濯物が並んでいる。

誰かの家だ。それが四つあるだけだ。

迎えに下りてきたのは、京介より十ほど若い男だった。名乗らなかった。京介も名乗らなかった。互いに顔は知っている。

「久しぶりです」

「ああ」

「街の人が来ると、ここは静かすぎて、耳が痛いでしょう」

「そうでもない」

男は、京介の右手を見た。ポケットに入ったままの。それから、何も言わずに歩き出した。

波が小走りで追いつく。「あの、私、弟子で」

「聞いてます」

「聞いてるんですか」

「昨日、電話がありましたから」

京介は足を止めそうになった。

山へ行くとは、誰にも言っていない。決めたのは、今朝だ。

板張りの部屋に通された。囲炉裏はない。石油ストーブが一つ、真ん中にある。座布団が積んである。

男が、盆を持って戻ってきた。

湯呑みが、三つ載っていた。

男は、ひとつずつ茶を注いだ。京介の前に一つ。波の前に一つ。三つ目を、ストーブの脇の、誰も座っていない座布団の前に置いた。

それから、何も言わずに出ていった。

波が、三つ目の湯呑みを見た。それから、京介を見た。

京介は、自分の湯呑みを、左手で取った。

三つ目の湯気が、ストーブの熱にあおられて、細く揺れていた。

しばらくして、男が襖を開けた。

「先に、診てもらえますか」

「診る?」

「五人ほど、寝込んでます」

案内された部屋に、布団が並んでいた。

起きている者はいなかった。全員、眠っている。

京介は膝をついて、いちばん手前の若い男の手首に、左の三本の指を当てた。

脈は、うわずっていた。上のほうで細かく打って、深いところまで下りてこない。街で三十人診た脈と、同じだ。

「いつからだ」

「先週の頭からです。順に、こうなりました」

「熱は」

「ありません」

京介は、次の布団に移った。同じだった。三人目も、四人目も。

「起きてこないんです」と男が言った。「十四時間、十六時間。それで、起きてくると、みんな同じことを言います」

男は、言葉を選んだ。

「夢を、見ないと」

京介は、五人目の脈から指を離した。

鍼を打った。左手で。いちばん細いのを一本ずつ。刺す深さを目で測ってから、指を当て直して、また測る。

打てば、脈は下りる。少しだけだが、下りる。

男が、そのやり方を見ていた。何も言わなかった。

波が、四人目の額に手を当てていた。しばらくそうしていて、それから、手を離した。

「先生」

「なんだ」

「何も、来ません」

京介はうなずいた。

鍼を仕舞って、廊下へ出た。板の間の前を通るとき、京介は、中をのぞいた。

三つ目の湯呑みから、もう、湯気は立っていなかった。

「泉さん」

男が、廊下の先で呼んだ。

「上で、呼んでます」

五

いちばん奥の建物だった。

部屋には、ほとんど何もなかった。畳と、窓と、壁際に積まれた古い紙の束だけ。紙は和綴じで、背が焼けている。何十冊もあった。

師匠は、窓を背にして座っていた。

京介は、この人の年齢を知らない。父より上だとしか聞いていない。痩せた老人だった。首が細い。手の甲に、血管が浮いている。

背筋だけが、まっすぐに伸びていた。

「座れ」

京介は座った。波は廊下で止まって、襖のところに正座した。

師匠は、京介の顔を見なかった。

「見せろ」

京介は、ポケットから右手を出した。

膝の上に、掌を上に向けて置く。

師匠が身を乗り出して、その掌に、親指を当てた。

真ん中を、押す。

痛みはない。感覚がない。ただ、押されているという事実だけが、周りの皮膚から遠回りに伝わってくる。

師匠は、しばらく押していた。それから、指を少しずらして、また押した。縁を探しているのだと分かった。

離した。

何も言わなかった。

それから、自分の右の肩の先を、左の手で一度だけさすった。寒い朝に、古傷を確かめるような手つきだった。

「三日前です」と京介が言った。

「聞いた」

「鍼は、左で打てます」

「そうか」

沈黙が長かった。窓の外で、鳥が鳴いた。街の雀ではない、もっと低い声だった。

「泉の家はな」と師匠が言った。「一人で受ける家ではなかった」

京介は、顔を上げた。

「三人で受けた。受け手、返し手、繋ぎ手」

師匠は、それきり、続けなかった。

京介は、自分の両手を見た。

安藤洋子のとき。牧野茂のとき。戸倉静江のとき。

三つの名前を、全部、一人で持っていた。

「一遍、抜けかけたやろ」

京介は、答えなかった。

安藤洋子の底に触れたとき、胸の左側が鳴った。指先が金龍鍼より冷たくなって、視界の端が白く飛んだ。

あのとき、横には誰もいなかった。

「減らんものを、一人で受けるな」師匠は言った。「電話で言うた」

「はい」

「いつから、一人になったんですか」

師匠は答えなかった。

「私が習ったときには、もう、一人でやる形でした。父からも、そう教わりました」

「そうやろな」

「父の代ですか」

師匠は、窓の外を見た。

積んである紙の束の、いちばん上のものに、しばらく目を落としていた。手は伸ばさなかった。

それから、言った。

「仁も、ここで、同じことを聞いた」

六

夕方、師匠が「歩く」と言って立ち上がった。

杖はつかなかった。立ち上がるのに、畳に手をついて、時間をかけた。歩き出すと、速くはない。だが、止まらない。京介は半歩後ろについた。

波は残された。「あんたは飯の支度を手伝え」と言われて、素直にうなずいていた。

沢まで下りた。

水は流れていた。石が並んでいて、そのあいだを白く割って落ちている。夕方の光が、水面で細かく跳ねていた。

「音が、低いやろ」と師匠が言った。

京介は、耳をすませた。

言われるまで、気づかなかった。

低い。水の量に対して、音が足りない。落ちる高さも、当たる石も、変わっているようには見えない。それなのに、返ってくる音だけが一段下りている。喉の奥で鳴っているような、鈍い音だ。

「上の者が、言うてきた。水汲みの爺さんや」師匠は言った。「耳が遠なったんやろて、自分で言うとった。八十過ぎとるからな」

「違うんですか」

「耳は悪ない。わしが確かめた。あの人は、うちの畑の南の端で、鍬の刃が石に当たる音を聞き分ける」

「量は」

「減っとらん。誰が測っても、去年と同じや」

京介は、しゃがんだ。

義眼を外す。

沢の下を、筋が通っていた。道の脇で見たのと同じ、太い一本。

ここでも、両側に乾いた帯がある。水の引いたあとの、白っぽい帯。沢の幅より、ずっと広い。前は、この山ぜんぶが濡れていたのだと分かる幅だった。

「見えるか」と師匠が言った。

「見えます」

「どんなふうや」

京介は、答えようとして、言葉を探した。

「川です。下から上へ、通っています。前はもっと広かった。両側に、乾いた跡があります。いまは、真ん中しか流れていません」

師匠は、沢を見ていた。

長いあいだ、見ていた。

それから、言った。

「わしには、見えん」

京介は、顔を上げた。

「水しか見えん。石と、水と、それだけや」

「……」

「六十年やっとる。お前の父より長い。ここに住んで、毎日この沢を見とる。それでも見えん」

風が上から下りてきた。杉が鳴った。水音が、その下でまた低くなった。

「いつからですか」京介は聞いた。「見えなくなったのは」

「見えんようになったんやない」師匠は言った。「最初からや。誰も見たことがない」

京介は、口を開いて、閉じた。

「お前に視えて、わしに視えん」師匠は言った。「それは、お前が優れとるからではない」

京介は、次の言葉を待った。

師匠は、それきり黙った。

沢の音が、また一段、低くなった気がした。

七

翌朝、京介は一人で沢へ下りた。

義眼を外して、上流へ歩いた。筋を目で追いながら、少しずつ。

道はない。石を伝って、木の根をまたいで、濡れた岩を回り込む。右手が使えないので、木を掴むのは左だけになる。何度か滑った。

半刻ほど歩いたところで、足が止まった。

筋の色が、変わっている。

そこだけ、薄い。

前後は同じ太さで通っているのに、その一点だけ、光が抜けている。管の途中を指で摘まんで、中身を引き出した跡のように、細くくびれている。

京介は、そこに立った。

周りを見た。何もない。倒木が一本と、苔の生えた岩。水は普通に流れている。獣の通った跡もない。ここへ人が来る理由が、何もない。

しゃがんで、左の掌を、地面につけた。

——冷たい。

土の冷たさではない。掌の中の空気が、抜けていくような冷たさだった。

京介は、この冷たさを知っている。

安藤さんの首の付け根で、金が冷えたときと同じだ。

布にくるんだ鍼を、懐から出した。左手で持つ。金龍鍼は、両の掌で包むものだ。片手で持つのは、正しい持ち方ではない。

地面にかざした。

冷えた。

指先から熱が逃げていく。氷に近づけたときのように、じわりと、根元から。

曇りもしない。匂いもしない。

——空だ。

京介は、鍼を下ろして、そのまま動かなかった。

人ではない。ここには誰もいない。人の首の付け根も、人の器もない。土と、水と、苔しかない。

その土から、抜かれている。

もう一度、掌をついて、縁を探した。

ある。内側から無理やり押し開かれた跡がある。何度も、何度も、ここから吸い出された跡だ。

安藤さんの首の付け根にあったものと、同じ形をしていた。

京介の口の中が、乾いた。

安藤洋子は、何ヶ月もかけて、少しずつ空にされた。

この沢は、何ヶ月で、ここまで細ったのか。

——人から抜くのは。

京介は、続きを言葉にしなかった。

膝が、地面から冷えていた。

立ち上がろうとして、右手をついた。

掌の下に、硬いものが当たった。

感覚のない場所だ。当たったことしか分からない。

落ち葉をどけた。

白い、丸い、掌にのるくらいの容器だった。

湿った落ち葉の下にあったのに、蓋は、濡れていなかった。

蓋に、見慣れない外国の字が並んでいた。

八

持って帰ると、師匠は容器を手に取って、蓋を開けて、匂いを嗅いだ。

それから、指ですくって、指先で伸ばした。しばらく擦り合わせて、また嗅いだ。

「ただの油や」

「そうです」

「これが、どうした」

「街でも、見ました」

師匠は、蓋を閉めた。

閉めてから、しばらく手の中で回していた。

「山まで来たか」

容器の出どころは、昼過ぎに分かった。

下の集落に、岩井さんという人がいた。七十を過ぎた男で、若い頃は炭を焼いていた。いまは一人で暮らしている。同じ容器を、囲炉裏の縁に置いていた。

師匠が、四十年知っている人だった。

「膝が痛い言うてな」と岩井さんは笑った。「もろたんや。よう効くいうて」

「誰にです」

「町から来た人や。去年の秋から、ときどき寄ってくれる。話がうまいんや」

岩井さんは、湯呑みを置いて、自分の左の手首を、右の指で持ってみせた。三本の指を揃えて、骨の脇に、そっと。

「こう持ってな。脈、見てくれるんや。よう分かる人や」

京介は、その三本の指を見ていた。

「ここは、誰も来んからな」

「よく、会われますか」

「月に、二遍か三遍やな。前は、もっと少なかった」

「会ったあとは、どうですか」

「そら、楽やわ」岩井さんは、なんでもないことのように言った。「話しとったら、すっと軽うなる。……そのあと、帰ってきて一人になると、なんちゅうか、前より、家が広いような気がするんやけどな」

京介は、脈を診た。

左の三本の指を当てて、しばらく待った。

——何も言わない。

速くもなく、遅くもない。強くもなく、弱くもない。生きた体なら必ず喋るはずのものが、聞こえてこない。からっぽの部屋に、指を当てているようだった。

波が、後ろから岩井さんの背中に手を当てた。

しばらくそうしていて、離した。

「先生」

「わかっている」

「何も、来ません」

金龍鍼を、岩井さんの首の付け根にかざした。左手で。

冷えた。

沢の一点と、同じ冷たさだった。

「岩井さん」師匠が言った。「泉さんに、診てもらえ」

「ええよ。膝、頼むわ」

「膝ではない」

岩井さんは、きょとんとしていた。それから、笑って、うなずいた。何を承知したのか、たぶん分かっていなかった。

部屋を移して、布団を敷いた。

京介は、懐から金龍鍼を出した。

両の掌で、包もうとした。

右の指が、閉じない。

掌の真ん中に力が入らない。親指と小指が、鍼を挟もうとして、外へ滑る。

もう一度やった。

左の掌に鍼を寝かせて、上から右をかぶせる。かぶせた右が、支えにならない。乗っているだけだ。

三度目で、鍼が畳に落ちた。

乾いた音がした。

京介は、それを拾えなかった。

拾えないのではない。拾っても、同じことだ。

還の型の、始まりのかたちが、組めない。

師匠が手を伸ばして、拾った。

そして、言った。

「貸せ」

九

岩井さんを寝かせて、師匠が枕元に座った。

京介は、その斜め後ろについた。波は、襖を閉めて、外に出た。何も言わずに出ていった。

「わしはこの人を四十年知っとる」と師匠が言った。「底に何が残っとるか、お前より、わしのほうが知っとる」

「……はい」

「お前は、注げ」

「注ぐ」

「わしの首の付け根に、手を当てとけ。左でええ」師匠は襟をくつろげた。「止めるな。止めたら、この人も、わしも戻らん」

「どれくらい」

「終わるまでや」

京介は、左の掌を、師匠の首の付け根に当てた。

骨が近い。皮膚が薄い。老人の首だった。指の下で、脈が細く打っていた。

義眼を外す。

視界が開いた瞬間、京介は息を止めた。

師匠の身体に、冷えた穴が、いくつも視えた。

肩。脇の下。腰。膝の裏。首の後ろ。二つ並んでいるところもある。左の脛に、三つ。

数えられてしまう。数えたくないのに、目が勝手に数える。

——十一。

京介の三つが、いま、この人の十一の隣にある。

「よそ見をするな」と師匠が言った。

「……はい」

師匠が、金龍鍼を両の掌で包んで、額の前へ捧げた。

京介は、他人がその形を作るのを、初めて見た。

自分がやるときは、腕から入る。この人は、背中から入っていた。肩が先に落ちて、それから掌が上がった。

師匠が唱えた。

「——足りたり。執を解き、咎を捨てて、本つ処へ還りませ」

同じ言葉だった。

同じ言葉なのに、まるで違う声だった。京介のそれは、意味を思い出しながら唱える声だ。この人のは、意味など、とうに通り過ぎたあとの声だった。

師匠が、金龍鍼を自分の首の付け根に当てた。

京介の掌の下で、その身体が、すっと薄くなった。

——出ていく。

京介は、注いだ。

自分の中の温かいものを、掌から、師匠の首の付け根へ。外から、押し込むように。

注いだそばから、抜けていく。師匠がそれを持って、岩井さんの中へ入っていくのが、掌の下で分かる。

京介は、注ぎ続けた。

減っていく。

自分の中の熱が、腹の底から胸へ、胸から肩へ、肩から指のほうへ集まって、出ていく。息が浅くなる。膝の感覚が遠くなる。視界の端が、白く飛びかける。

——それでも、穴は開かない。

開かない。

開くのは、この老人の身体のほうだ。

師匠の呼吸が、深くなった。

底に、届いたのだ。

京介には、それが何かは視えなかった。炭を焼いていた頃のことか、誰かの顔か、それとも、岩井さんが誰にも渡さずに握っていた、もっと小さなものか。

掌の下の脈だけを数えていた。数えているうちに、数が分からなくなった。

師匠の手が、額の前から、左右へ、ゆっくり開いた。

「——還れ」

岩井さんが、長い息をついた。

ようやく、息のしかたを思い出したような声だった。

京介の掌の下で、師匠の身体が、ぐらりと傾いた。

支える。骨が軽い。

そのとき、視えた。

師匠の右の肩の先に、新しい一点が生まれるのが。

色が抜けて、消えた。

十二になった。

京介は、掌を離せなかった。

師匠が、荒い息のまま、京介を見上げた。

目は、はっきりしていた。

「これで、一人ではなくなったな」

十

三日いて、山を下りた。

岩井さんは、二日目の朝に自分で歩いて帰った。膝は痛いままだと笑っていた。容器は、師匠が預かった。捨てるとは言わなかった。

寝込んでいた五人のうち、三人が起きた。二人はまだ寝ている。京介は、左手で打てるだけ打った。

沢の音は、低いままだった。

師匠は、最後の朝、玄関まで出てこなかった。奥の部屋の襖が閉まっていた。京介は、その前で一度足を止めて、何も言わずに出た。

舗装の切れ目のところで、京介は足を止めた。

右手をポケットから出して、しゃがんだ。

両の掌を、土につける。

左には、来た。

右には、来なかった。

立ち上がって、右手をポケットに戻した。

波が、隣に並んだ。

しばらく黙って歩いた。バスの時間までは、まだある。

「先生」

「なんだ」

「私、何もできませんでした」

波は前を向いていた。声は、いつもの明るさに近かった。近いだけで、同じではなかった。

「私、吸うのが仕事なのに、山では何も来なくて。おじいさんの背中に触っても、何も来なくて。ごはん作って、洗濯物たたんで、それだけでした」

京介は、少し考えて、言った。

「私もだ」

波が、こちらを見た。

「私は、注いだだけだ。還したのは、私じゃない」

「……先生」

「あの人の肩に、穴が開いた」京介は言った。「私には、開いていない」

言ってから、京介は、自分の声から温度が抜けているのに気づいた。

波は、何も言わなかった。手も伸ばしてこなかった。ただ、少しだけ、京介のほうへ寄って歩いた。

肩は、触れなかった。

あの老人の身体に十二個目が開いた瞬間、胸の左側が、ざり、と鳴った。

そのことを、京介は誰にも言わなかった。

院に戻ったのは、夜だった。

戸を開けて、京介は立ち止まった。

電気が点いていた。

床が、拭いてある。待合のソファのカバーが替えてある。ベッドのシーツも、洗ってたたんで、棚に積んである。三日ぶんの埃が、どこにもない。

龍之介が、奥のデスクにいた。

記録を書いていた。顔を上げて、立ち上がった。

「おかえりなさい」

「……掃除、してくれたのか」

「暇だったので」

「すまない」

龍之介は、何か言おうとして、やめた。

それから、記録を几帳面に閉じて、鞄を取った。

「山、どうでしたか」

「同じだった」京介は言った。「街と、同じだ」

龍之介の手が、鞄の持ち手のところで、一瞬止まった。

「そうですか」

「ああ」

「明日、いつも通りでいいですか」

「ああ」

「じゃあ、失礼します」

戸が閉まった。

京介は、しばらくそこに立っていた。

最後まで、龍之介は目を合わせなかった。

波が、明かりを消しに歩いていって、途中で振り返った。

「先生」

「なんだ」

「今日はもう、寝てくださいね」

「ああ」

波が帰ってから、京介は施術室の流しで手を洗った。

蛇口をひねる。水が、ステンレスの底を打った。

音が、少しだけ、低い気がした。

京介は、水を出したまま、しばらく耳をすませていた。

それから、蛇口を閉めた。

奥の棚の前に立った。

いちばん下の引き出しが、指一本ぶん、開いていた。

京介は、そこを開けたままにしたことがない。

手をかけた。

開けなかった。

奥まで、押した。

電気を消して、階段を上がった。

外では、雀は、まだ鳴いていなかった。

序

沢の水は、去年と同じだけ流れていた。

男は、桶を持って、いつもの石の上にしゃがむ。四十年、同じ石だ。膝の当たるところが、少しへこんでいる。

桶を沈める。手首まで浸かる。

——冷たさが、遅い。

浸けてしばらく経ってから、ようやく指の先が冷えてくる。前は違った。入れた瞬間に、骨まで来た。この沢はそういう沢だった。夏でも、手を入れて十数えられなかった。

男は、桶を引き上げて、耳をすませた。

音が、低い。

水の量は変わっていない。石の並びも、去年のままだ。それなのに、音だけが一段下りている。喉の奥で鳴っているような、鈍い音になっている。

年だな、と男は思った。耳が遠くなったのだろう。八十を過ぎれば、そういうこともある。

桶を担いで、立ち上がった。

背中の向こうで、音が、もう一段、下がった。

一

暖簾を、出さない。

その朝、泉京介は、たたきに立って、しばらく暖簾を見ていた。それから、たたんで、下駄箱の上に置いた。

表の戸に紙を貼る。一週間の休診。理由は書かなかった。

貼り終えたところで、後ろから声がした。

「先生」

丸田さんだった。米屋の。予約は明日のはずだ。

「早いですね」

「いや、通りかかっただけでね」丸田さんは紙を見て、それから京介を見た。「一週間か」

「すみません」

「かまわんよ。腰は、そんなに急がん」丸田さんは笑って、それから、京介の右手のあたりを見た。「手、どうしたの」

京介の右手は、ポケットの中にあった。

いつからそうしているのか、自分でも思い出せない。三日前からだ。掌の真ん中に穴が開いてから、手をどこに置いていいか分からなくなった。垂らしておくと、指が勝手に開く。膝に置くと、そこだけ温度がないのが分かる。

「少し、痛めまして」

「そりゃいかん。鍼、持てるんか」

「持てます」

嘘だった。

丸田さんは何か言いかけて、やめた。この人はそういうところがある。聞いていいところと、いけないところを、体で知っている。

「じゃあ、来週な」

「はい」

「先生」丸田さんは、二歩行ってから振り返った。「うちの婆さんがね、こないだから、やたら寝るんだ」

京介は、顔を上げた。

「寝れんのなら心配だけど、寝すぎるのは、いいことなんだろうか」

「……お帰りになったら、少し、お話を聞かせてください」

「ああ、そんな大層な話じゃないよ。じゃ、また」

丸田さんが行ってしまってから、京介はしばらく戸の前に立っていた。

朝が、少し冷えるようになっていた。

戸が開いた。

「せんせーっ、おはようございますっ!」

波だった。両手にコンビニの袋。休診の紙を見て、目を丸くして、それから、いつもの顔に戻った。

「あ。休みなんですね」

「そうだ」

「言ってくださいよ。おにぎり、二個も買っちゃった」

波は袋を提げたまま、たたきに上がってきた。それから、京介の前で足を止めた。

「先生」

「なんだ」

「手、ですよね」

京介は、答えなかった。

波は袋を床に置いて、まっすぐ京介を見ていた。笑っていなかった。この子が笑っていない顔を、京介は年に何度も見ない。

「一昨日から、右手、ずっとポケットです。昨日、左手で打ってました。丸田さんの前だけ、右手を出しました。丸田さんが帰ったら、またしまいました」

「見ていたのか」

「見てました」

「なぜ言わない」

波は、少しだけ、笑った。

「言わなかったのは、先生が、言わないでほしそうだったからです」

京介は、息を吐いた。

この子の明るさは、選んでいるものだ。知っていて、京介は毎回、同じところで足を取られる。

「山へ行く」と京介は言った。「一週間だ」

「山」

「師匠のところだ」

波は、袋を拾い上げた。それから、おにぎりを一つ、京介に押しつけた。

「私も、行きます」

二

龍之介は、来なかった。

昼前に電話が一本あった。

「今日は、用事があって」

「そうか」

「すみません」

「いや」

少し間があった。何か言いかけている間だった。京介は待った。

「……失礼します」

切れた。

波が受話器を置いて、こちらを見た。何か言いたそうだったが、言わなかった。京介も聞かなかった。

——先週も、同じ言葉だった。

列車に乗ったのは、昼過ぎだった。三時間ほどかかる。

波は最初のうち、窓の外を指さして「あれ何ですか」「あそこ行ったことあります」と喋っていたが、山が近づくにつれて口数が減って、途中から寝た。

寝顔は、起きているときより、少しだけ疲れて見えた。

京介は、膝の上の右手を見ていた。ポケットから出して、掌を上に向けて置いてある。誰も見ていない場所でだけ、そうする。

真ん中に、色がない。

義眼をしているから、視えてはいない。ただ、そこに何もないことは、皮膚が知っている。指先で押してみても、押されたという事実だけが、周りの皮膚から遠回りに伝わってくる。

左の指で、穴の縁をなぞった。

縁から内側が、ない。

終点でバスに乗り換えた。乗客は三人だった。四十分揺られて、また終点で降りた。

降りるとき、運転手が、料金箱の上から二人を見た。

「上まで、行くの」

「はい」

「このごろ、上に行く人が多いね」

運転手はそれだけ言って、扉を閉めた。バスは、来た道を戻っていった。

そこから先は、歩きだ。

舗装が切れる。土になる。

その瞬間に、京介は足を止めた。

——足の裏が、違う。

街では、熱かった。駅の裏でアスファルトに掌をついた夜、足の裏が焼けるように熱かった。

ここは、熱くない。

温かい。じんわりと、下から上がってくる。

広い。

「先生」波が横で立ち止まった。「なんか、楽です」

「楽?」

「胸のあたりが。すうっとします」

波は二、三度、深く息を吸った。それから、咳をしようとして——出なかった。

「あれ」

もう一度、喉を鳴らしてみている。

「出ないです」

波の顔色は、いい。

登り始めて一時間ほどで、道が細くなった。杉が両側から迫って、日が落ちる。地面が、しっとりと湿ってきた。

京介は、道の端にしゃがんだ。

右のポケットから、手を出す。

土に、両の掌をついた。

左には、来た。

じんわりと、下から。温かいものが掌に集まってくる。

右には、何も来なかった。

三

京介は、しばらくそのままでいた。

右の掌を、押しつけてみる。指を広げて、面をつける。手首を返して、角度を変える。

何も来ない。

左を離して、右だけにしてみた。

土の冷たさは分かる。小石が当たっている感触も、湿った落ち葉が指のあいだに入る感じも分かる。皮膚は、ちゃんと働いている。

ただ、その下を通っているものが、まったく来ない。

——掌の真ん中から、入ってこない。

京介は、左の手を、右の掌に重ねた。

重ねても、何も変わらなかった。

波が、少し離れたところで、こちらを見ていた。近づいてこなかった。

京介は、左の指で、義眼にふれた。

外す。

左の眼窩の奥で、眠っていた目が覚める。

とたんに、山が変わった。

杉の影がいっせいに濃くなる。空気に層が見える。木の一本一本の輪郭に、うすい色が滲んでいる。街では、人の輪郭にしか色を見なかった。ここでは、木にも、岩にも、道にもある。

京介は、しばらく息を止めていた。

こんなに濃い場所を、忘れていた。

もう一度、両の掌を土につけた。

視えた。

斜面の下を、光の筋が通っている。

太い。街で見たものとは比べものにならない。駅の裏で見たあれは、この道の脇を流れる細い水路のようなものだった。これは、川だ。

速さがある。向きがある。深さがある。掌の下、二尺か三尺のところを、下から上へ、ゆっくりと、途切れずに通っている。

——だが。

京介は、筋の縁を目で追った。

両側に、跡がある。

いまの筋の外側に、色の違う帯が残っている。乾いた川床のような、水の引いたあとの、白っぽい帯だ。左右に、それぞれ筋と同じくらいの幅がある。

前は、そこまで満ちていた。

いまは、真ん中だけを流れている。

細い。

京介は、そこで、動けなくなった。

駅の裏で掌をついた夜のことを、思い出していた。

京介は、右の掌を見た。

義眼を外しているから、いまは視える。掌の真ん中に、色のない一点がある。周りの皮膚は生きているのに、そこだけが、切り抜いたように何もない。

差し出したのは、三日前だ。戸倉さんが荷物を持っていた側の掌に、開いた。

差し出す場所は、選べない。相手の側が決める。

——差し出した場所が、いま、要る場所だった。

背筋が、すっと冷えた。

左手で打てばいい。三日のあいだ、そう数えてきた。

京介は、左の掌を、目の前に持ち上げた。

まだ、何もない。生きた色が、指の先まで通っている。

しばらく、それを見ていた。

義眼をはめた。

視界が半分に戻る。ふたをするように。

立ち上がって、右手をポケットに入れた。

波が、まだこちらを見ていた。

その波の視線が、京介の肩越しに、上へ動いた。

道の上のほうから、人が下りてきていた。

四

総本山、と呼んでいる。

実際には、門も塀もない。杉を抜けたところに平地があって、古い建物が四棟、間を置いて建っている。屋根は葺き替えたばかりらしく、そこだけ新しい。畑がある。物干しに、洗濯物が並んでいる。

誰かの家だ。それが四つあるだけだ。

迎えに下りてきたのは、京介より十ほど若い男だった。名乗らなかった。京介も名乗らなかった。互いに顔は知っている。

「久しぶりです」

「ああ」

「街の人が来ると、ここは静かすぎて、耳が痛いでしょう」

「そうでもない」

男は、京介の右手を見た。ポケットに入ったままの。それから、何も言わずに歩き出した。

波が小走りで追いつく。「あの、私、弟子で」

「聞いてます」

「聞いてるんですか」

「昨日、電話がありましたから」

京介は足を止めそうになった。

山へ行くとは、誰にも言っていない。決めたのは、今朝だ。

板張りの部屋に通された。囲炉裏はない。石油ストーブが一つ、真ん中にある。座布団が積んである。

男が、盆を持って戻ってきた。

湯呑みが、三つ載っていた。

男は、ひとつずつ茶を注いだ。京介の前に一つ。波の前に一つ。三つ目を、ストーブの脇の、誰も座っていない座布団の前に置いた。

それから、何も言わずに出ていった。

波が、三つ目の湯呑みを見た。それから、京介を見た。

京介は、自分の湯呑みを、左手で取った。

三つ目の湯気が、ストーブの熱にあおられて、細く揺れていた。

しばらくして、男が襖を開けた。

「先に、診てもらえますか」

「診る?」

「五人ほど、寝込んでます」

案内された部屋に、布団が並んでいた。

起きている者はいなかった。全員、眠っている。

京介は膝をついて、いちばん手前の若い男の手首に、左の三本の指を当てた。

脈は、うわずっていた。上のほうで細かく打って、深いところまで下りてこない。街で三十人診た脈と、同じだ。

「いつからだ」

「先週の頭からです。順に、こうなりました」

「熱は」

「ありません」

京介は、次の布団に移った。同じだった。三人目も、四人目も。

「起きてこないんです」と男が言った。「十四時間、十六時間。それで、起きてくると、みんな同じことを言います」

男は、言葉を選んだ。

「夢を、見ないと」

京介は、五人目の脈から指を離した。

鍼を打った。左手で。いちばん細いのを一本ずつ。刺す深さを目で測ってから、指を当て直して、また測る。

打てば、脈は下りる。少しだけだが、下りる。

男が、そのやり方を見ていた。何も言わなかった。

波が、四人目の額に手を当てていた。しばらくそうしていて、それから、手を離した。

「先生」

「なんだ」

「何も、来ません」

京介はうなずいた。

鍼を仕舞って、廊下へ出た。板の間の前を通るとき、京介は、中をのぞいた。

三つ目の湯呑みから、もう、湯気は立っていなかった。

「泉さん」

男が、廊下の先で呼んだ。

「上で、呼んでます」

五

いちばん奥の建物だった。

部屋には、ほとんど何もなかった。畳と、窓と、壁際に積まれた古い紙の束だけ。紙は和綴じで、背が焼けている。何十冊もあった。

師匠は、窓を背にして座っていた。

京介は、この人の年齢を知らない。父より上だとしか聞いていない。痩せた老人だった。首が細い。手の甲に、血管が浮いている。

背筋だけが、まっすぐに伸びていた。

「座れ」

京介は座った。波は廊下で止まって、襖のところに正座した。

師匠は、京介の顔を見なかった。

「見せろ」

京介は、ポケットから右手を出した。

膝の上に、掌を上に向けて置く。

師匠が身を乗り出して、その掌に、親指を当てた。

真ん中を、押す。

痛みはない。感覚がない。ただ、押されているという事実だけが、周りの皮膚から遠回りに伝わってくる。

師匠は、しばらく押していた。それから、指を少しずらして、また押した。縁を探しているのだと分かった。

離した。

何も言わなかった。

それから、自分の右の肩の先を、左の手で一度だけさすった。寒い朝に、古傷を確かめるような手つきだった。

「三日前です」と京介が言った。

「聞いた」

「鍼は、左で打てます」

「そうか」

沈黙が長かった。窓の外で、鳥が鳴いた。街の雀ではない、もっと低い声だった。

「泉の家はな」と師匠が言った。「一人で受ける家ではなかった」

京介は、顔を上げた。

「三人で受けた。受け手、返し手、繋ぎ手」

師匠は、それきり、続けなかった。

京介は、自分の両手を見た。

安藤洋子のとき。牧野茂のとき。戸倉静江のとき。

三つの名前を、全部、一人で持っていた。

「一遍、抜けかけたやろ」

京介は、答えなかった。

安藤洋子の底に触れたとき、胸の左側が鳴った。指先が金龍鍼より冷たくなって、視界の端が白く飛んだ。

あのとき、横には誰もいなかった。

「減らんものを、一人で受けるな」師匠は言った。「電話で言うた」

「はい」

「いつから、一人になったんですか」

師匠は答えなかった。

「私が習ったときには、もう、一人でやる形でした。父からも、そう教わりました」

「そうやろな」

「父の代ですか」

師匠は、窓の外を見た。

積んである紙の束の、いちばん上のものに、しばらく目を落としていた。手は伸ばさなかった。

それから、言った。

「仁も、ここで、同じことを聞いた」

六

夕方、師匠が「歩く」と言って立ち上がった。

杖はつかなかった。立ち上がるのに、畳に手をついて、時間をかけた。歩き出すと、速くはない。だが、止まらない。京介は半歩後ろについた。

波は残された。「あんたは飯の支度を手伝え」と言われて、素直にうなずいていた。

沢まで下りた。

水は流れていた。石が並んでいて、そのあいだを白く割って落ちている。夕方の光が、水面で細かく跳ねていた。

「音が、低いやろ」と師匠が言った。

京介は、耳をすませた。

言われるまで、気づかなかった。

低い。水の量に対して、音が足りない。落ちる高さも、当たる石も、変わっているようには見えない。それなのに、返ってくる音だけが一段下りている。喉の奥で鳴っているような、鈍い音だ。

「上の者が、言うてきた。水汲みの爺さんや」師匠は言った。「耳が遠なったんやろて、自分で言うとった。八十過ぎとるからな」

「違うんですか」

「耳は悪ない。わしが確かめた。あの人は、うちの畑の南の端で、鍬の刃が石に当たる音を聞き分ける」

「量は」

「減っとらん。誰が測っても、去年と同じや」

京介は、しゃがんだ。

義眼を外す。

沢の下を、筋が通っていた。道の脇で見たのと同じ、太い一本。

ここでも、両側に乾いた帯がある。水の引いたあとの、白っぽい帯。沢の幅より、ずっと広い。前は、この山ぜんぶが濡れていたのだと分かる幅だった。

「見えるか」と師匠が言った。

「見えます」

「どんなふうや」

京介は、答えようとして、言葉を探した。

「川です。下から上へ、通っています。前はもっと広かった。両側に、乾いた跡があります。いまは、真ん中しか流れていません」

師匠は、沢を見ていた。

長いあいだ、見ていた。

それから、言った。

「わしには、見えん」

京介は、顔を上げた。

「水しか見えん。石と、水と、それだけや」

「……」

「六十年やっとる。お前の父より長い。ここに住んで、毎日この沢を見とる。それでも見えん」

風が上から下りてきた。杉が鳴った。水音が、その下でまた低くなった。

「いつからですか」京介は聞いた。「見えなくなったのは」

「見えんようになったんやない」師匠は言った。「最初からや。誰も見たことがない」

京介は、口を開いて、閉じた。

「お前に視えて、わしに視えん」師匠は言った。「それは、お前が優れとるからではない」

京介は、次の言葉を待った。

師匠は、それきり黙った。

沢の音が、また一段、低くなった気がした。

七

翌朝、京介は一人で沢へ下りた。

義眼を外して、上流へ歩いた。筋を目で追いながら、少しずつ。

道はない。石を伝って、木の根をまたいで、濡れた岩を回り込む。右手が使えないので、木を掴むのは左だけになる。何度か滑った。

半刻ほど歩いたところで、足が止まった。

筋の色が、変わっている。

そこだけ、薄い。

前後は同じ太さで通っているのに、その一点だけ、光が抜けている。管の途中を指で摘まんで、中身を引き出した跡のように、細くくびれている。

京介は、そこに立った。

周りを見た。何もない。倒木が一本と、苔の生えた岩。水は普通に流れている。獣の通った跡もない。ここへ人が来る理由が、何もない。

しゃがんで、左の掌を、地面につけた。

——冷たい。

土の冷たさではない。掌の中の空気が、抜けていくような冷たさだった。

京介は、この冷たさを知っている。

安藤さんの首の付け根で、金が冷えたときと同じだ。

布にくるんだ鍼を、懐から出した。左手で持つ。金龍鍼は、両の掌で包むものだ。片手で持つのは、正しい持ち方ではない。

地面にかざした。

冷えた。

指先から熱が逃げていく。氷に近づけたときのように、じわりと、根元から。

曇りもしない。匂いもしない。

——空だ。

京介は、鍼を下ろして、そのまま動かなかった。

人ではない。ここには誰もいない。人の首の付け根も、人の器もない。土と、水と、苔しかない。

その土から、抜かれている。

もう一度、掌をついて、縁を探した。

ある。内側から無理やり押し開かれた跡がある。何度も、何度も、ここから吸い出された跡だ。

安藤さんの首の付け根にあったものと、同じ形をしていた。

京介の口の中が、乾いた。

安藤洋子は、何ヶ月もかけて、少しずつ空にされた。

この沢は、何ヶ月で、ここまで細ったのか。

——人から抜くのは。

京介は、続きを言葉にしなかった。

膝が、地面から冷えていた。

立ち上がろうとして、右手をついた。

掌の下に、硬いものが当たった。

感覚のない場所だ。当たったことしか分からない。

落ち葉をどけた。

白い、丸い、掌にのるくらいの容器だった。

湿った落ち葉の下にあったのに、蓋は、濡れていなかった。

蓋に、見慣れない外国の字が並んでいた。

八

持って帰ると、師匠は容器を手に取って、蓋を開けて、匂いを嗅いだ。

それから、指ですくって、指先で伸ばした。しばらく擦り合わせて、また嗅いだ。

「ただの油や」

「そうです」

「これが、どうした」

「街でも、見ました」

師匠は、蓋を閉めた。

閉めてから、しばらく手の中で回していた。

「山まで来たか」

容器の出どころは、昼過ぎに分かった。

下の集落に、岩井さんという人がいた。七十を過ぎた男で、若い頃は炭を焼いていた。いまは一人で暮らしている。同じ容器を、囲炉裏の縁に置いていた。

師匠が、四十年知っている人だった。

「膝が痛い言うてな」と岩井さんは笑った。「もろたんや。よう効くいうて」

「誰にです」

「町から来た人や。去年の秋から、ときどき寄ってくれる。話がうまいんや」

岩井さんは、湯呑みを置いて、自分の左の手首を、右の指で持ってみせた。三本の指を揃えて、骨の脇に、そっと。

「こう持ってな。脈、見てくれるんや。よう分かる人や」

京介は、その三本の指を見ていた。

「ここは、誰も来んからな」

「よく、会われますか」

「月に、二遍か三遍やな。前は、もっと少なかった」

「会ったあとは、どうですか」

「そら、楽やわ」岩井さんは、なんでもないことのように言った。「話しとったら、すっと軽うなる。……そのあと、帰ってきて一人になると、なんちゅうか、前より、家が広いような気がするんやけどな」

京介は、脈を診た。

左の三本の指を当てて、しばらく待った。

——何も言わない。

速くもなく、遅くもない。強くもなく、弱くもない。生きた体なら必ず喋るはずのものが、聞こえてこない。からっぽの部屋に、指を当てているようだった。

波が、後ろから岩井さんの背中に手を当てた。

しばらくそうしていて、離した。

「先生」

「わかっている」

「何も、来ません」

金龍鍼を、岩井さんの首の付け根にかざした。左手で。

冷えた。

沢の一点と、同じ冷たさだった。

「岩井さん」師匠が言った。「泉さんに、診てもらえ」

「ええよ。膝、頼むわ」

「膝ではない」

岩井さんは、きょとんとしていた。それから、笑って、うなずいた。何を承知したのか、たぶん分かっていなかった。

部屋を移して、布団を敷いた。

京介は、懐から金龍鍼を出した。

両の掌で、包もうとした。

右の指が、閉じない。

掌の真ん中に力が入らない。親指と小指が、鍼を挟もうとして、外へ滑る。

もう一度やった。

左の掌に鍼を寝かせて、上から右をかぶせる。かぶせた右が、支えにならない。乗っているだけだ。

三度目で、鍼が畳に落ちた。

乾いた音がした。

京介は、それを拾えなかった。

拾えないのではない。拾っても、同じことだ。

還の型の、始まりのかたちが、組めない。

師匠が手を伸ばして、拾った。

そして、言った。

「貸せ」

九

岩井さんを寝かせて、師匠が枕元に座った。

京介は、その斜め後ろについた。波は、襖を閉めて、外に出た。何も言わずに出ていった。

「わしはこの人を四十年知っとる」と師匠が言った。「底に何が残っとるか、お前より、わしのほうが知っとる」

「……はい」

「お前は、注げ」

「注ぐ」

「わしの首の付け根に、手を当てとけ。左でええ」師匠は襟をくつろげた。「止めるな。止めたら、この人も、わしも戻らん」

「どれくらい」

「終わるまでや」

京介は、左の掌を、師匠の首の付け根に当てた。

骨が近い。皮膚が薄い。老人の首だった。指の下で、脈が細く打っていた。

義眼を外す。

視界が開いた瞬間、京介は息を止めた。

師匠の身体に、冷えた穴が、いくつも視えた。

肩。脇の下。腰。膝の裏。首の後ろ。二つ並んでいるところもある。左の脛に、三つ。

数えられてしまう。数えたくないのに、目が勝手に数える。

——十一。

京介の三つが、いま、この人の十一の隣にある。

「よそ見をするな」と師匠が言った。

「……はい」

師匠が、金龍鍼を両の掌で包んで、額の前へ捧げた。

京介は、他人がその形を作るのを、初めて見た。

自分がやるときは、腕から入る。この人は、背中から入っていた。肩が先に落ちて、それから掌が上がった。

師匠が唱えた。

「——足りたり。執を解き、咎を捨てて、本つ処へ還りませ」

同じ言葉だった。

同じ言葉なのに、まるで違う声だった。京介のそれは、意味を思い出しながら唱える声だ。この人のは、意味など、とうに通り過ぎたあとの声だった。

師匠が、金龍鍼を自分の首の付け根に当てた。

京介の掌の下で、その身体が、すっと薄くなった。

——出ていく。

京介は、注いだ。

自分の中の温かいものを、掌から、師匠の首の付け根へ。外から、押し込むように。

注いだそばから、抜けていく。師匠がそれを持って、岩井さんの中へ入っていくのが、掌の下で分かる。

京介は、注ぎ続けた。

減っていく。

自分の中の熱が、腹の底から胸へ、胸から肩へ、肩から指のほうへ集まって、出ていく。息が浅くなる。膝の感覚が遠くなる。視界の端が、白く飛びかける。

——それでも、穴は開かない。

開かない。

開くのは、この老人の身体のほうだ。

師匠の呼吸が、深くなった。

底に、届いたのだ。

京介には、それが何かは視えなかった。炭を焼いていた頃のことか、誰かの顔か、それとも、岩井さんが誰にも渡さずに握っていた、もっと小さなものか。

掌の下の脈だけを数えていた。数えているうちに、数が分からなくなった。

師匠の手が、額の前から、左右へ、ゆっくり開いた。

「——還れ」

岩井さんが、長い息をついた。

ようやく、息のしかたを思い出したような声だった。

京介の掌の下で、師匠の身体が、ぐらりと傾いた。

支える。骨が軽い。

そのとき、視えた。

師匠の右の肩の先に、新しい一点が生まれるのが。

色が抜けて、消えた。

十二になった。

京介は、掌を離せなかった。

師匠が、荒い息のまま、京介を見上げた。

目は、はっきりしていた。

「これで、一人ではなくなったな」

十

三日いて、山を下りた。

岩井さんは、二日目の朝に自分で歩いて帰った。膝は痛いままだと笑っていた。容器は、師匠が預かった。捨てるとは言わなかった。

寝込んでいた五人のうち、三人が起きた。二人はまだ寝ている。京介は、左手で打てるだけ打った。

沢の音は、低いままだった。

師匠は、最後の朝、玄関まで出てこなかった。奥の部屋の襖が閉まっていた。京介は、その前で一度足を止めて、何も言わずに出た。

舗装の切れ目のところで、京介は足を止めた。

右手をポケットから出して、しゃがんだ。

両の掌を、土につける。

左には、来た。

右には、来なかった。

立ち上がって、右手をポケットに戻した。

波が、隣に並んだ。

しばらく黙って歩いた。バスの時間までは、まだある。

「先生」

「なんだ」

「私、何もできませんでした」

波は前を向いていた。声は、いつもの明るさに近かった。近いだけで、同じではなかった。

「私、吸うのが仕事なのに、山では何も来なくて。おじいさんの背中に触っても、何も来なくて。ごはん作って、洗濯物たたんで、それだけでした」

京介は、少し考えて、言った。

「私もだ」

波が、こちらを見た。

「私は、注いだだけだ。還したのは、私じゃない」

「……先生」

「あの人の肩に、穴が開いた」京介は言った。「私には、開いていない」

言ってから、京介は、自分の声から温度が抜けているのに気づいた。

波は、何も言わなかった。手も伸ばしてこなかった。ただ、少しだけ、京介のほうへ寄って歩いた。

肩は、触れなかった。

あの老人の身体に十二個目が開いた瞬間、胸の左側が、ざり、と鳴った。

そのことを、京介は誰にも言わなかった。

院に戻ったのは、夜だった。

戸を開けて、京介は立ち止まった。

電気が点いていた。

床が、拭いてある。待合のソファのカバーが替えてある。ベッドのシーツも、洗ってたたんで、棚に積んである。三日ぶんの埃が、どこにもない。

龍之介が、奥のデスクにいた。

記録を書いていた。顔を上げて、立ち上がった。

「おかえりなさい」

「……掃除、してくれたのか」

「暇だったので」

「すまない」

龍之介は、何か言おうとして、やめた。

それから、記録を几帳面に閉じて、鞄を取った。

「山、どうでしたか」

「同じだった」京介は言った。「街と、同じだ」

龍之介の手が、鞄の持ち手のところで、一瞬止まった。

「そうですか」

「ああ」

「明日、いつも通りでいいですか」

「ああ」

「じゃあ、失礼します」

戸が閉まった。

京介は、しばらくそこに立っていた。

最後まで、龍之介は目を合わせなかった。

波が、明かりを消しに歩いていって、途中で振り返った。

「先生」

「なんだ」

「今日はもう、寝てくださいね」

「ああ」

波が帰ってから、京介は施術室の流しで手を洗った。

蛇口をひねる。水が、ステンレスの底を打った。

音が、少しだけ、低い気がした。

京介は、水を出したまま、しばらく耳をすませていた。

それから、蛇口を閉めた。

奥の棚の前に立った。

いちばん下の引き出しが、指一本ぶん、開いていた。

京介は、そこを開けたままにしたことがない。

手をかけた。

開けなかった。

奥まで、押した。

電気を消して、階段を上がった。

外では、雀は、まだ鳴いていなかった。

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説明のつかない不調と気配、肆ノ型「気」。

「気」は、徴候だけが先に現れて、原因がまだ名乗り出ていない型です。どこが悪いとも言えない。けれど、前と同じではない。その違いに最初に気づくのは、たいてい、毎日それに触れている手です。

研

研一

依代師ユニバースの作者。連載小説「泉京介の憂鬱」、「黒竜人」シリーズを執筆。