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依
依代集

脈が一定すぎる男

― その人の脈は、一度も間違えなかった ―
著 / 研一 恐 ★★★★☆ 約 13,200 字 / 読了 約 23 分 現代奇譚
陰

序

コーヒーは、とっくに冷めていた。

男は、窓際の席から動かない。飲みたいわけではなかった。この席に座っていると、時間が減る。それでよかった。

上着のポケットに、指を入れる。

白い、丸い容器。掌にのるくらいの。指の腹で、ひとつ、ふたつ、と数える。

四つ。

四人分だ。誰と誰に渡すかは、もう決めてある。カウンターの端で競馬新聞を広げている人。木曜の午後に必ず来る、化粧の濃い人。あと二人。

渡すときの言い方も、決めてある。よく効くから、と言えばいい。そのあとで、いい人がいるんですよ、と続ける。

昔なら、こんなことはしなかったと思う。

男は、そう思ってから、少し、首をかしげた。

昔が、いつのことだったか、思い出せない。

一

雀の声で、泉京介は目を覚ます。

カーテンの向こうが白んでくると、軒先の電線のあたりで、朝礼でも始まったみたいに騒ぎ出す。京介は布団の中でしばらくそれを聞いてから、関節をひとつずつ思い出すようにして起き上がった。首をまわす。右、左。

——腰の、右の下が、冷たい。

三週間になる。湯につかっても、灸をすえても、そこだけが動かない。冷えた穴とは、そういうものだ。何にも反応しない。京介はもう、そこを温めようとするのをやめていた。

白湯を一杯。階段を降りれば、そこが職場だ。一階が、京介の鍼灸院になっている。

——それなのに、泉京介は、朝から憂鬱だった。

空はよく晴れている。世界のほうは、今朝も、何ひとつ、京介を憂鬱にさせるようなことをしていない。

なぜなら——もうすぐ、あの子が来る。

暖簾を出すか出さないかのうちに、表の戸が開いた。

「先生。ゆうべ、寝てないでしょう」

波だ。京介の弟子。おはようございますより先に、それを言った。

「寝た」

「二時間くらい」波は、コンビニの袋を提げたまま、京介の顔を下から覗き込む。「目の白いとこが赤いです。あと、白湯の湯呑み、まだ持ってます」

京介は、手の中を見た。持っていた。

波は、よく笑う。患者の年寄りたちは、波が来る日を心待ちにしている。波がいると、院の中の空気が、ひとつ、明るいほうへ傾く。

けれど京介は知っている。この子の明るさは、性格ではない。選んでいるのだ。全部見えていて、見えたうえで、明るいほうを出している。だから、たちが悪い。

「はい、おにぎり。梅」

「……よく覚えてるな」

「覚えてません。三年、毎日見てるだけです」

波は、袋の中から自分のぶんを出しながら、言った。

「先生。今日も脈、診させてください」

波の指が、京介の手首へ、すっと伸びてくる。

京介は、その手を、引いた。

波の指が、空をつかんだ。

「……あれ」

波が、まばたきをした。

「こないだは、引かなかったのに」

「あれは、たまたまだ」

波は、しばらく京介を見ていた。それから「はい」と言った。

「じゃあ、また明日、聞きます」

怒りもしないし、拗ねもしない。ただ、明日も同じことをすると言っただけだ。京介には、そのほうがこたえた。

——受け取れるようになったわけではない。

あの日は、どうしても誰かに手首を押さえていてほしかった。それだけのことだ。一度受け取ってしまうと、次に断るのが、前より難しくなる。

差し出された手の温もりが、京介には、少し、熱すぎる。ありがたいのに、痛い。

——これが、京介の憂鬱の、正体だった。

波が、袋を畳みながら、ひとつ、小さく咳をした。乾いた、軽い咳だ。本人は気にもとめない。

京介は、その咳を、聞かなかったふりをした。

二

最初の患者は、いつもの顔だった。

米屋の丸田さん。七十をいくつか過ぎて、週に二度、腰の様子を見せに来る。

「先生、また腰がねえ」

「丸田さん。米俵は」

「持っとらん。孫が乗った」

「……それは痛みますよ」

うつ伏せになった丸田さんの手首に、京介は三本の指を当てる。脈が、いつもどおりに喋る。少し速い。孫の話をしたから速いのだ。人の脈というのは、そのくらい正直にできている。

「龍之介。丸田さんの色は」

奥のデスクから、もう一人の弟子が顔を上げた。

「濃いです。……あと、揺れてます」

「揺れる?」波が横から口を出した。

「揺れますよ、人の色は」龍之介は、めずらしく少し得意そうだった。「炎みたいに。息をするたびに動くし、話しかけられると、ぶわっと広がります。丸田さんはいま、お孫さんの話をしたので、こう……ふくらみました」

「じゃあ、揺れないときは」

「ないです」龍之介は言った。「生きてる人で、揺れてないのは、見たことがないです」

京介は、鍼を一本置きながら、それを聞いていた。

龍之介はまだ脈を取れない。かわりに、人の輪郭に滲む色が視える。元気な人は濃く、疲れている人は薄い。本人も気づかない心の濁りを、この子は色で先に視てしまう。視えるのに、まだ何もできない。それが龍之介の苛立ちだった。

——皮肉なもので、京介の知るかぎり、いちばん色の薄い人間が、この子自身だった。髪も、肌も、目も薄い。視る側にいる者は、視られる側では目立たないようにできているのかもしれない。

丸田さんを送り出したあと、電話が鳴った。士郎だ。駅前で古い喫茶店をやっている、長いつきあいの男。

「京介。こないだ言った、二人のうちの一人な」

「ああ」

「今から行かせる。牧野さんていう。腰と、眠れんのだと」

「わかった」

「……それとな」士郎は、そこで一度、黙った。

京介は待った。士郎が黙るときは、たいてい何かある。けれど士郎は言わないし、京介も聞かない。それが二人の流儀だった。

「うちの店な。あの人、毎日来るんだ。開店から閉店まで、窓際に座ってる。コーヒー一杯で」

「そうか」

「悪いとは言わん。うちはそういう店だ。ただな」士郎の声が、少し低くなった。

「あの人、一年前は、そんなふうじゃなかった」

三

十五分ほどして、戸が開いた。

背の高い男だった。六十を二つ三つ越えたあたりだろう。きちんとアイロンのかかったシャツを着ている。着ているのに、痩せているせいで、シャツのほうが余っていた。

「牧野です。牧野茂。士郎さんに、こちらを」

声に、張りがない。弱っているのとは違う。音量はちゃんとある。ただ、抑揚が、削れている。

ベッドに腰かけてもらって、京介はいつもの問診を始めた。

「眠れないと」

「眠れないというか」牧野さんは、少し考える顔をした。「横になると、朝になってるんです。眠った気は、しないんですが」

「お食事は」

「食べてます。たぶん」

たぶん、と牧野さんは言った。嘘をついている顔ではなかった。本当に、思い出せないのだ。

「お仕事は」

「印刷を、四十年。三年前にたたみました」

「ご家族は」

「家内が、六年前に」

それだけ言って、牧野さんは、続きを言わなかった。

京介は、手首へ手を伸ばした。

「失礼しますね」

三本の指を当てる。

——温かい。脈も、打っている。

なのに、何も聞こえてこない。速くもなく、遅くもない。強くもなく、弱くもない。生きた体なら必ず喋るはずのものが、一言も来ない。からっぽの部屋に、指を当てているようだった。

知っている。この手応えを、京介は知っている。三週間前に、一度だけ。

「牧野さん。最近、よく会う方は」

「いえ。もう、誰にも」

「以前は」

「……ああ」牧野さんは、少しだけ笑った。笑うと、頬の肉がなくて、皮だけが動いた。「いましたよ。去年の秋ごろに。優しい人でね。会うと、すーっと、楽になるんです」

やはりか、と京介は思った。三週間前と、同じ話が始まる。

「その方とは、今も」

「いえ。半年、会ってません」

京介の指が、止まった。

「半年」

「ええ。向こうから連絡が来なくなって。まあ、そんなものでしょう」牧野さんは、なんでもないことのように言った。「こっちも、そのころには、困らなくなってましたから」

困らなくなった。

京介は、その言い方を、頭の隅に置いた。

目で促すと、波が牧野さんの肩に、そっと手を置いた。波が触れれば、患者の体に溜まっているものが、いくらか波のほうへ移る。それで少し、楽になる。

波の手が、置かれた。

置き直された。指の腹で、そっと押される。

「……先生」

波の顔から、笑いが消えていた。

「何も、来ません」

「何も?」

「重いのも、痛いのも、悲しいのも。何も来ないんです。こんなの、初めてです」波は、自分の掌を見た。「触ってるのに、触ってないみたいで」

奥で、龍之介が立ち上がっていた。牧野さんのほうを見て、目の焦点がわずかに揺れている。京介が目で問うと、龍之介は待合のほうへ半歩下がって、声を落とした。

「先生。あの人、色が」

「薄いか」

「ないです」龍之介は言った。「薄いんじゃありません。ない。輪郭のところに、何も乗ってないんです。……壁とか、椅子とか、そういうものと、同じです」

三週間前、京介はこの子の言葉を「考えすぎだ」と切り捨てて、そのあとで撤回した。同じ間違いは、しない。

——抜かれている。

京介は、そう見た。ならば、あとは満たせばいい。

そう思ったとき、牧野さんが鞄の口を開けた。

「そうだ、先生。これ、腰に塗ってるんですが。塗り方、合ってますかね」

出てきたのは、白い、丸い容器だった。掌にのるくらいの。蓋には、見慣れない外国の字が並んでいる。

京介の背中が、すっと冷えた。

——同じものだ。

三週間前、安藤洋子が鞄から出したのと、寸分たがわず同じ容器。同じ字。同じ大きさ。

「牧野さん。それは、どちらで」

「もらったんです」

「どなたに」

「さあ」牧野さんは、容器をくるりと回した。「誰だったかな。……まあ、いいじゃないですか。よく効きますよ、これ」

そして、思い出したように言った。

「ああ、そうだ。今日、一人、連れてきたんです。腰の悪い知り合いでね。いい先生がいますよって。……待合に、いますよ」

京介は、顔を上げた。

待合の古いソファに、いつのまにか、男が一人、腰かけていた。

戸の開く音を、京介は、聞いていない。

四

「瀬川と申します」

男は、そう名乗った。予約票の字は丁寧で、癖がなかった。本当の名かどうかは、わからない。

四十代の半ばだろうか。中肉中背。紺のジャケット。特徴らしい特徴が、何もない。すれ違って三歩で忘れる種類の顔だった。

「腰が痛みまして。牧野さんに、よくしていただいている先生がいると伺って」

瀬川は、脱いだジャケットを几帳面に畳んで、ベッドの端に置いた。動作が静かだった。物音を立てないのではない。立てる必要のある音だけを、正確に立てている。

「失礼して、脈を」

京介は、その手首に三本の指を当てた。

——打っている。

速くも、遅くもない。強くも、弱くもない。

同じか、と一瞬思った。牧野さんと同じで、何も語らない脈か、と。

違った。

牧野さんの脈は、からっぽの部屋だった。指を当てても、返ってくるものがない。

瀬川の脈には、部屋がある。家具もある。人もいる。全部そろっている。ただ——動かない。

速さも、深さも、強さも、正しい。正しすぎる。人の脈というのは、こんなふうにはならない。息を吸えば少し速くなる。吐けば緩む。何かを思い出せば、そこで一度、つまずく。その小さな乱れの連なりを、京介は「生きている」と読む。

この脈には、乱れが、一つもなかった。

「瀬川さん。少し、深く息を吸ってみてください」

瀬川は、素直に吸った。

脈は、変わらなかった。

「止めてみてください」

止めた。

変わらない。

「……もう、けっこうです」

瀬川が息を吐いた。それでも、変わらなかった。

細いものが背筋を這っていく感覚が、京介にはあった。

待合へ出ると、龍之介がついてきた。

「どうだ」

「色は、あります」龍之介は口早に言った。「濃いです。むしろ、丸田さんより濃いくらいで。……でも」

「でも」

「揺れてないんです」

京介は、この子の顔を見た。

「息をしても動かないんです。しゃべっても広がらない。ずっと同じ形で、そこにあります。……塗ってあるみたいに」

朝、龍之介は言った。生きている人で、揺れていないのは、見たことがない、と。

「疲れていないだけだろう」

京介は、そう言った。

言ってから、また、と思った。三週間前と同じ言い方をしている。この子の見たものを、自分の知っている枠に押し込もうとしている。

龍之介は、今度は食い下がらなかった。ただ黙って京介を見た。その目のほうが、こたえた。

施術室の入口で、波が動かずにいた。

「波」

「……行きたくないです」

京介は、少し驚いた。この子が患者に近づきたくないと言ったのは、初めてだった。

「重いのか」

「重くないです。全然、来ません。牧野さんとも違います」波は、自分の腕をさすっていた。「牧野さんは、触っても何も来なかった。あの人は……近づくと、こっちのが、減る気がするんです」

五

京介は、引き出しを開けた。

布にくるんだ、一本の鍼。刺すための鍼ではない。先が丸く、刺さらない。皮膚に当てて使う、純金の鍼だ。金龍鍼という。泉の家に代々受け継がれてきた一本で、出番は、人の体が人ならざる何かを語りはじめたときだけだった。

答えを出すために使うのではない。出した答えが正しいかを、確かめるために使う。

だが今日は、まだ答えが出ていない。

京介は、それでも鍼を持った。

まず、牧野さんの首の付け根に、そっとかざす。人のエネルギーが出入りする場所だ。

金が、すっと、冷たくなった。

指先から、熱が逃げていく。三週間前と同じ冷たさ。空になった者の冷たさ。

——やはり。

次に、京介は、瀬川のほうへ回った。

「瀬川さん。少しだけ、失礼します」

「どうぞ」

その首の付け根に、金龍鍼をかざす。

曇るか。匂うか。冷えるか。この鍼の答えは、三つのうちのどれかだ。

金龍鍼は。

——何も、言わなかった。

曇らない。匂わない。冷たくもならない。掌の中で、昼の光をそのまま返して、ただそこにある。

健やかな人にかざしたときと、まったく同じだった。

京介は、鍼をかざしたまま、動かなかった。

脈は、あんなにおかしい。色は揺れない。波が近づきたくないと言う。それなのに、鍼は、この人を、なんでもない人間だと言っている。

この鍼が何かを告げたことは、これまで何度もあった。

何も告げないことが、これほど恐ろしかったのは、初めてだった。

六

京介は、鍼を布に戻し、丸椅子に腰を下ろした。

考えなければならない。鍼は、もう手伝ってくれない。

目を閉じて、今日この二人が自分から喋ったことを、順番どおりではなく、並べ直してみる。

——半年、会っていない。

——そのころには、困らなくなっていた。

——誰にもらったか、思い出せない。

——「今日、一人、連れてきたんです」。

京介は、目を開けた。

一つ目が、おかしい。

抜きは、会っているあいだにしか起きない。相手の首の付け根に触れて、そこから吸い出す。離れていれば、抜かれない。三週間前、安藤洋子は「会うたびに」空になっていった。会うのをやめれば、そこで止まる。止まって、時間をかけて戻っていく。

牧野さんは、半年会っていない。

なのに、空のままだ。戻っていない。それどころか、安藤洋子より、はるかに深く空いている。

なぜ戻らないのか。

二つ目。困らなくなった、と牧野さんは言った。

抜かれる側は、抜かれるほど相手に会いたくなる。会えば楽になるからだ。楽になった分だけ空になり、空になるからまた会いたくなる。そうやって縛る。抜き手のほうから連絡を絶つ理由が、ない。

絶ったということは。

——もう、取るものが、なくなったからだ。

そして三つ目。白い容器。

三週間前、安藤洋子は、あれを「あの人にもらった」と言った。効くから、と言われて持たされた。手元にあるだけで、また会いたくなる。そういう紐だ。

牧野さんは、もらった相手を忘れているのに、まだ持っている。

いや——。

京介は、施術室のほうを見た。牧野さんの鞄の口が、少し開いている。

さっき、牧野さんはあの中に手を入れた。入れて、探した。探して、一つ、取り出した。

一つ取り出すためには、いくつか入っていなければならない。

京介は立ち上がり、そばへ行った。

「牧野さん。その塗り薬。もう一つ、お持ちですか」

牧野さんは、うつ伏せのまま、あっさりと言った。

「ありますよ。四つ」

「どうして、四つも」

「渡すからです」

「どなたに」

「士郎さんの店の、常連さんに」牧野さんは天井を見たまま言った。「競馬の新聞を読んでる人と、木曜に来る、化粧の濃い人と。あと二人」

「なぜ、渡すんです」

「よく効くから」

「効きましたか」

牧野さんは、少し黙った。

「……どうだったかな」

京介の中で、すべてが静かに一列に並んだ。

三週間前、京介は、安藤洋子から中身が持っていかれるのを止めた。だからあの人は生きて帰った。

牧野さんは、止まらなかった。持っていかれ切った。

持っていかれ切った人間を、抜き手は、捨てない。

容器を持たせて、次の人のところへ、歩かせる。

空になった器は、何も感じない。だから疑わない。断らない。疑うにも断るにも、心のどこかが動かなければならないのに、動く場所が残っていない。命じられたことを、そのままやる。

——抜かれた者は、捨てられるのではない。使われるのだ。

「先生」

龍之介の声が、うしろでした。青い顔をして、けれど目を逸らさずに、この子は言った。

「牧野さんが、瀬川さんを連れてきたって、言いましたよね」

「ああ」

「順番、逆じゃないですか」

京介は、振り返った。

「牧野さんが連れてきたんじゃなくて。牧野さんが、連れてこられたんじゃないですか。……ここに」

隣のベッドで、瀬川が、うつ伏せの顔をこちらへ向けて、静かに笑っていた。

その顔は、笑っていても、色が揺れなかった。

七

「いい弟子さんですね」

瀬川は、ゆっくりと身を起こした。畳んだジャケットを取り、皺を伸ばして、腕を通す。

「波。牧野さんを、待合へ」

京介の声から、温度が抜けていた。

波が牧野さんに手を貸して出ていく。牧野さんは逆らわなかった。逆らうという発想が、なさそうだった。龍之介だけが柱のところに残った。京介は追い返さなかった。誰かが、この男を見ていなければならない。

「あなたが、抜いた」

「抜く」瀬川は、その言葉を口の中で転がした。「人聞きの悪い言い方をなさる」

「他に、言いようがありますか」

「あります」瀬川は袖口を直しながら言った。「瀉(しゃ)ろした、と申し上げています」

京介は、目を細めた。

鍼の言葉だ。足りないものを補い、余ったものを瀉ろす。補うか、瀉ろすか。人の体に何かをするとき、道はその二つしかない。京介が毎日やっていることも、突きつめれば、そのどちらかだった。

「あなたも鍼を」

「学びました。ずいぶん昔に」瀬川はうなずいた。「先生の家のやり方とは、違いますが」

「瀉法は」京介は言った。「余っているものを、減らす技です」

「ええ」

「あの人に、余っているものが、一つでもありましたか」

瀬川は、待合のほうへ目をやった。牧野さんが、ソファに腰かけて、壁の似顔絵をぼんやり眺めている。

「ありましたよ」瀬川は言った。「最初はね」

京介は、拳を握った。握ってから、自分でも意外なほどそれが強いことに気づいた。

「六年前に奥さんを亡くされて、三年で仕事もたたんだ。それで何が残ったと思います?」瀬川は穏やかに続けた。「余っていたんですよ、あの人には。行き場のないものが、たっぷりと。行き場がないというのは、詰まっているということでしょう。詰まっているものを、瀉ろしてさしあげた。会うたびに、あの人は楽になった。ご本人が、そうおっしゃっていた」

「楽になったのではない」京介は言った。「軽くなったんだ。減ったから」

「同じことでは」

「違う」

京介は、一歩、前に出た。

「悲しみが詰まっているなら、流してやればいい。流すのは、流すだけだ。あなたがやったのは、悲しみと一緒に、あの人が持っていたものを全部持っていくことだ。奥さんの顔も、印刷所の匂いも、四十年分、全部」

瀬川は、少しだけ首をかしげた。

「持っていったのではありません。あの人が、渡したんです」

「——」

「私は一度も、無理に取っていない。毎回、あの人のほうから、聞いてほしいと言って会いに来た。話して、楽になって、また会いたいと言って帰った。それを脅したとも騙したとも、私は思いません」

責めるでもなく、勝ち誇るでもなく、事実を読み上げるような声だった。

「先生。愛というのは、弱さです」

「……」

「持っているから、減るんです。誰かに向けているから、そこから漏れる。あの人は、奥さんに向けたまま、開けっぱなしにしていた。開けっぱなしのものは、いつか外に出ます。私が受け取らなくても、いずれこぼれて終わっていた」

「だから、先に取ったと」

「閉じておけば、こんなことにはならない」瀬川は、自分の胸のあたりを掌で軽く押さえた。「私は、閉じています。二十年以上、閉じたままです。だから、減りません」

京介は、その手つきを見た。

脈が乱れないはずだ。色が揺れないはずだ。この男は動かないのではない。動かないように、自分で自分に栓をしている。ずっと。

「——何を、閉じたんです」

瀬川の指が、胸のところで、一度だけ止まった。

止まって、離れた。

「腰の話をしていたはずですが」

瀬川は、そう言って、ドアのほうへ歩き出した。

「三週間前、こちらで、私の知り合いが一人、手放されました。安藤さんという方です。……あれには、少し驚きました。あの人からは、もう何も出てこない。連絡も来ない。困りもしない。あんなことができる家が、まだ残っているとは思っていなかった」

「だから、見に来たのか」

「見に来たのではありません」瀬川は、初めてはっきりと京介を見た。「お見せしに来たんです」

瀬川の目が、京介の腰のあたりに、一度だけ落ちた。

ほんの一瞬だった。それから何事もなかったように、待合のほうへ視線を戻す。

「先生は、あの人もなんとかしようとお思いでしょう。どうぞ。私は、外で待っています」

そして、静かに付け加えた。

「返すものがある人と、ない人がいますよ」

八

「波。外へ出なさい」

「先生」

「出なさい」

波は唇を噛んで、それでも従った。この人の空をまともに吸えば、波の体がもたない。牧野さんの空は、安藤洋子のそれよりはるかに深い。

龍之介だけが、壁際に残った。

「牧野さん。少しだけ、目を閉じていてください」

牧野さんは、素直にまぶたを下ろした。素直すぎた。

左の義眼に指を当て、外す。

背に手を回し、腰の上に埋めた鍼を、抜く。

金龍鍼を両の掌で包み、額の前へ捧げる。

世界が、色を持って立ち上がってきた。牧野さんの体の輪郭には——本当に、何も乗っていなかった。壁と、椅子と、同じだった。

「——足(た)りたり。執(しゅう)を解(と)き、咎(とが)を捨(す)てて、本(もと)つ処(ところ)へ還(かえ)りませ」

もう、いい。じゅうぶん、がんばった。帰ろう。

襟をくつろげ、自分の首の付け根に金龍鍼を当てる。そこを、開いた。

世界が、裏返った。

——広かった。

京介は、一瞬、方角を見失った。

安藤洋子の中は、家具を運び出したあとの部屋だった。がらんとしていたが、部屋ではあった。壁があり、床があり、隅があった。だから底に手が届いた。

牧野さんの中には、部屋が、なかった。

壁がない。床がない。隅がない。どこまでも開けていて、どこにも当たらない。手を伸ばしても、何にも触れない。

京介は、それでも探した。

六年前に亡くなったという奥さんの、声でも、手でも、皿の音でもいい。四十年やった印刷所の、インクの匂いでもいい。抜かれた者にも、いちばん底にはたいてい何か残っている。誰にも渡さずに、握っていたものが。

三週間前も、そうだった。台所の床の冷たさと、明るくしては伏せた画面の光と、それでも朝まで消さなかった名前の並び。あれがあったから、返せた。

ここには。

——ひとつだけ、あった。

京介の手が、それに触れた。

白い、丸い、掌にのるくらいの、容器の重さ。

ポケットに入れておくときの、布が少しだけ引っ張られる感じ。指の腹で数えるときの、蓋のふちの丸み。渡すときの、手のひらの向き。

それだけが、この人の底に、残っていた。

愛の代わりに、務めが入っていた。

京介は、動けなかった。

やがて、自分の中の温かいものを、そこへ流し込んだ。

溜まらなかった。

漏れるのではない。漏れるには、器が要る。この人には、器そのものがない。注いだものは、ただ広い場所に散っていった。雪が水面に落ちるように。落ちた先も、落ちたあとも、ない。

もう一度、注いだ。

同じだった。

「牧野さん」京介は、内側から語りかけた。「あなたは、ひとりぼっちじゃない」

返事が、なかった。

安藤洋子は、返してきた。——でも、誰も。そう言い返してきた。言い返せるということは、まだそこに誰かがいるということだった。

牧野さんは、何も言い返さなかった。

「奥さんのことを、覚えていますか」

……。

「印刷所の、匂いを」

……。

「あなたは、誰かに何かを渡そうとしている。それは、あなたが決めたことですか」

わずかに、何かが動いた。

京介は、そこへ手を伸ばした。

動いたのは、容器の重さだった。渡さなければ、という、それだけだった。

あとは、一言だった。

両の手を、額の前から左右へ開く。送り出す手。そして、あの一語を言えばいい。

——還れ。

京介の唇が、動いた。

動いて、止まった。

還れ、というのは、帰る場所がある者に言う言葉だ。三週間前、京介は安藤洋子に、生きた毎日へ還れと言った。魔物に言うときは、あるべき場所へ還れと言う。どちらも、還る先がある。

この人に、どこへ、と言えばいい。

もう、いい。じゅうぶん、がんばった、帰ろう——帰ろう、と言いかけて、京介の中で、返ってくるものがあった。

どこへ。

答えられなかった。

そのときだった。

胸の、左側。いちばん古い、二度と温まらないはずの一点が。

ざり、と鳴った。

容器の重さに触れた指先で、京介は、それを聞いた。

愛の代わりに務めが入っている場所。それは、この人の中だけの話ではない。

京介は、両手をゆっくりと下ろした。

開かなかった。

「……終わりだ」

金龍鍼を離し、首の付け根を閉じる。腰の埋め鍼を、もとに戻す。義眼を、もう一度はめた。

世界から、色が消えた。

牧野さんが、目を開けた。

「……終わりました?」

「ええ」

「ああ、そうですか」牧野さんは体を起こし、シャツの裾を直した。「ありがとうございました。……で、いくらでしたっけ」

声に、抑揚は、なかった。

九

瀬川は、表の日陰に立って待っていた。

牧野さんが出ていくと、瀬川は「お世話になりました」と言って、丁寧に頭を下げた。腰の痛みについては、最後まで一言も言わなかった。

二人が並んで歩いていく。背の高いほうが、少し前を歩いている。他人が見れば、親戚か、古い同僚か、そんなふうに見えるだろう。

京介は、たたきに立って、それを見ていた。

追う理由が、ない。

あの男は、生きている。今日も飯を食い、笑い、また誰かに優しくする。帰る場所を、ちゃんと持っている人間だ。そういう相手に、京介の型は何もできない。

三週間前、京介は龍之介にそう言った。魔物は還せる。人は、還せない。

今日、そこに、もう一つ増えた。

抜かれ切った者も、還せない。返すべきものが、底に残っていないからだ。

救えない相手が、二種類ある。抜く側と、抜かれ終わった側。両方とも、生きて、歩いて、目の前から出ていく。

「先生」

龍之介が、うしろに立っていた。

「あの人、最後に、先生の腰を見ました」

京介は、振り返った。

「腰の、右の下です。ちょうど、あそこだけ」龍之介は、自分の腰に手を当てた。「なんで、場所がわかるんでしょうか」

京介は、答えなかった。

答えを持っていなかった。

「先生、これ」

波が、丸椅子の上を指した。白い容器が、一つ、置いてある。

「帰りぎわに、牧野さんが。先生も、どうぞって」

四つが、三つになった。

「波。触ってみなさい」

波は、おそるおそる指を伸ばし、蓋に触れ、掌にのせ、しばらく持っていた。

「……何も、来ません」

「そうだろうな」

「え?」

「何も入っていない」京介は言った。「ただの油と、香料と、それらしい字だ。仕掛けも、呪いもない」

「じゃあ、なんで」

「何も入っていないからだ」

波が、きょとんとした。

「……持ってると、思い出すからですか」龍之介が、代わりに言った。

「そうだ」京介はうなずいた。「効かなくていい。手元にあるだけでいい。ポケットに入れておけば、渡した相手の顔が、一日に何度か浮かぶ。それだけで、人は繋がれる」

京介は容器を布に包み、引き出しのいちばん奥へ入れた。捨てなかった。捨てられなかった。同じものが、どこかで、あと三つ、誰かの手に渡ろうとしている。

電話をかけた。

「士郎。牧野さんは、帰った」

『どうだった』

京介は、少し黙った。

「……悪かった」

受話器の向こうで、士郎が息を吸う音がした。士郎は、それ以上聞かなかった。

「士郎。あんたの店の常連で、競馬の新聞を読んでる人と、木曜に来る、化粧の濃い人。心当たりはあるか」

『ある』

「その二人には、牧野さんから何をもらっても、受け取るなと言ってくれ。悪いが、理由は言えない」

『わかった』士郎はあっさり言った。それから、少し声を落とした。『……京介。こないだ言った、二人目のことだが』

「ああ」

『先週から、店に来てない』

京介は、受話器を持ち直した。

『前は毎日来てた。ぱたっと来なくなった。牧野さんとは逆だ』

京介は、窓の外を見た。

抜かれ切った者は、店に来る。何も感じないから、毎日同じ席に座っていられる。

来なくなったということは、まだ、来られない理由がある側だ。

——まだ、間に合う側だ。

十

その日の診療を、京介はいつもより少し早く終いにした。

波は夕方まで何度も京介の顔色をうかがっていたが、「もう帰りなさい」と言うと、めずらしく素直に帰っていった。龍之介は記録を几帳面に閉じてから、一度だけ振り返って、何か言いかけて、やめて、出ていった。

一人になった院は、しんとしている。壁の似顔絵だけが、眉を八の字にして、京介を見ている。

京介は、丸椅子に腰を下ろした。

体が、軽かった。

それが、いやだった。

三週間前、安藤洋子を還したあと、京介の腰の右の下に、二度と温まらない一点が生まれた。差し出した分だけ、欠けた。欠けたところは冷たくて、重たくて、朝ごとに自分がそこを持っていることを思い出させる。

今日は、増えていない。

京介は、体のあちこちに指を当ててみた。腰の右の下は、いつもどおり冷たい。胸の左側も、いつもどおりだ。それ以外は、どこにも、何もできていない。

浄化は成立しなかった。だから、明け渡すべき一点も生まれなかった。

なのに、注いだ分は、確かに減っていた。

差し出したものが、どこにも刻まれなかった。

穴が増えるのは、つらい。京介はそれを知っている。

穴も増えないのに減っているというのは、もっと、寒かった。

京介は立ち上がり、奥の棚の前に立った。

いちばん下の引き出し。ふだんは、開けない。

その中に、古い桐箱がある。兄の、ものだ。泉仁。京介より、五つ上の。

三週間前、京介はあの箱の蓋に指をかけた。かけた瞬間、胸のいちばん古い冷えた穴がうごめいた。冷えた穴は何にも反応しない。死んだ一点のはずだ。それなのに、あの箱にだけは、答える。

今日、あの一点は、もう一度鳴った。

牧野さんの底に、容器の重さしか残っていないのを、この指で確かめたときに。

京介は、引き出しの取っ手に手を伸ばした。

伸ばして、止めた。

——今日は、やめておこう。

もし今日この箱に触れて、胸のあの一点がまた鳴ったら。京介は、それをどちらの意味に取ればいいのか、わからない。兄を思い出しているのか。それとも——自分の中にも、愛の代わりに務めだけが残っている場所が、もうできているのか。

答えを聞くには、今日は、少し、減りすぎていた。

京介は、手を下ろした。

翌朝も、雀が鳴いた。

京介は、関節をひとつずつ思い出すようにして起き上がる。首をまわす。腰の右の下が、しんと冷たい。

白湯を一杯。階段を降りて、暖簾を出すか出さないかのうちに、表の戸が開いた。

「先生。今日は、ちゃんと寝ましたね」

波だ。昨日のことなど、けろりとしている。いや、けろりとしているふりが、この子は上手いのだ。

「先生。今日も、脈、診させてください」

波が、手を伸ばしてくる。

京介は、その手を、引いた。

「はい」波は、そう言って、笑った。「じゃあ、また明日、聞きます」

空はよく晴れている。雀は気持ちよさそうに鳴いている。世界のほうは、今朝も、何ひとつ、京介を憂鬱にさせるようなことをしていない。

それなのに、泉京介は、やっぱり、少しだけ憂鬱だった。

どこかの街を、脈の乱れない男が、今日も普通に歩いている。その半歩うしろを、もう何も感じない人が、ポケットに三つの容器を入れて、ついていく。

そして、店に来なくなった人が、一人いる。

それでも京介は、今日も、暖簾を表に出す。朝の光が、たたきに長く差し込んだ。

序

コーヒーは、とっくに冷めていた。

男は、窓際の席から動かない。飲みたいわけではなかった。この席に座っていると、時間が減る。それでよかった。

上着のポケットに、指を入れる。

白い、丸い容器。掌にのるくらいの。指の腹で、ひとつ、ふたつ、と数える。

四つ。

四人分だ。誰と誰に渡すかは、もう決めてある。カウンターの端で競馬新聞を広げている人。木曜の午後に必ず来る、化粧の濃い人。あと二人。

渡すときの言い方も、決めてある。よく効くから、と言えばいい。そのあとで、いい人がいるんですよ、と続ける。

昔なら、こんなことはしなかったと思う。

男は、そう思ってから、少し、首をかしげた。

昔が、いつのことだったか、思い出せない。

一

雀の声で、泉京介は目を覚ます。

カーテンの向こうが白んでくると、軒先の電線のあたりで、朝礼でも始まったみたいに騒ぎ出す。京介は布団の中でしばらくそれを聞いてから、関節をひとつずつ思い出すようにして起き上がった。首をまわす。右、左。

——腰の、右の下が、冷たい。

三週間になる。湯につかっても、灸をすえても、そこだけが動かない。冷えた穴とは、そういうものだ。何にも反応しない。京介はもう、そこを温めようとするのをやめていた。

白湯を一杯。階段を降りれば、そこが職場だ。一階が、京介の鍼灸院になっている。

——それなのに、泉京介は、朝から憂鬱だった。

空はよく晴れている。世界のほうは、今朝も、何ひとつ、京介を憂鬱にさせるようなことをしていない。

なぜなら——もうすぐ、あの子が来る。

暖簾を出すか出さないかのうちに、表の戸が開いた。

「先生。ゆうべ、寝てないでしょう」

波だ。京介の弟子。おはようございますより先に、それを言った。

「寝た」

「二時間くらい」波は、コンビニの袋を提げたまま、京介の顔を下から覗き込む。「目の白いとこが赤いです。あと、白湯の湯呑み、まだ持ってます」

京介は、手の中を見た。持っていた。

波は、よく笑う。患者の年寄りたちは、波が来る日を心待ちにしている。波がいると、院の中の空気が、ひとつ、明るいほうへ傾く。

けれど京介は知っている。この子の明るさは、性格ではない。選んでいるのだ。全部見えていて、見えたうえで、明るいほうを出している。だから、たちが悪い。

「はい、おにぎり。梅」

「……よく覚えてるな」

「覚えてません。三年、毎日見てるだけです」

波は、袋の中から自分のぶんを出しながら、言った。

「先生。今日も脈、診させてください」

波の指が、京介の手首へ、すっと伸びてくる。

京介は、その手を、引いた。

波の指が、空をつかんだ。

「……あれ」

波が、まばたきをした。

「こないだは、引かなかったのに」

「あれは、たまたまだ」

波は、しばらく京介を見ていた。それから「はい」と言った。

「じゃあ、また明日、聞きます」

怒りもしないし、拗ねもしない。ただ、明日も同じことをすると言っただけだ。京介には、そのほうがこたえた。

——受け取れるようになったわけではない。

あの日は、どうしても誰かに手首を押さえていてほしかった。それだけのことだ。一度受け取ってしまうと、次に断るのが、前より難しくなる。

差し出された手の温もりが、京介には、少し、熱すぎる。ありがたいのに、痛い。

——これが、京介の憂鬱の、正体だった。

波が、袋を畳みながら、ひとつ、小さく咳をした。乾いた、軽い咳だ。本人は気にもとめない。

京介は、その咳を、聞かなかったふりをした。

二

最初の患者は、いつもの顔だった。

米屋の丸田さん。七十をいくつか過ぎて、週に二度、腰の様子を見せに来る。

「先生、また腰がねえ」

「丸田さん。米俵は」

「持っとらん。孫が乗った」

「……それは痛みますよ」

うつ伏せになった丸田さんの手首に、京介は三本の指を当てる。脈が、いつもどおりに喋る。少し速い。孫の話をしたから速いのだ。人の脈というのは、そのくらい正直にできている。

「龍之介。丸田さんの色は」

奥のデスクから、もう一人の弟子が顔を上げた。

「濃いです。……あと、揺れてます」

「揺れる?」波が横から口を出した。

「揺れますよ、人の色は」龍之介は、めずらしく少し得意そうだった。「炎みたいに。息をするたびに動くし、話しかけられると、ぶわっと広がります。丸田さんはいま、お孫さんの話をしたので、こう……ふくらみました」

「じゃあ、揺れないときは」

「ないです」龍之介は言った。「生きてる人で、揺れてないのは、見たことがないです」

京介は、鍼を一本置きながら、それを聞いていた。

龍之介はまだ脈を取れない。かわりに、人の輪郭に滲む色が視える。元気な人は濃く、疲れている人は薄い。本人も気づかない心の濁りを、この子は色で先に視てしまう。視えるのに、まだ何もできない。それが龍之介の苛立ちだった。

——皮肉なもので、京介の知るかぎり、いちばん色の薄い人間が、この子自身だった。髪も、肌も、目も薄い。視る側にいる者は、視られる側では目立たないようにできているのかもしれない。

丸田さんを送り出したあと、電話が鳴った。士郎だ。駅前で古い喫茶店をやっている、長いつきあいの男。

「京介。こないだ言った、二人のうちの一人な」

「ああ」

「今から行かせる。牧野さんていう。腰と、眠れんのだと」

「わかった」

「……それとな」士郎は、そこで一度、黙った。

京介は待った。士郎が黙るときは、たいてい何かある。けれど士郎は言わないし、京介も聞かない。それが二人の流儀だった。

「うちの店な。あの人、毎日来るんだ。開店から閉店まで、窓際に座ってる。コーヒー一杯で」

「そうか」

「悪いとは言わん。うちはそういう店だ。ただな」士郎の声が、少し低くなった。

「あの人、一年前は、そんなふうじゃなかった」

三

十五分ほどして、戸が開いた。

背の高い男だった。六十を二つ三つ越えたあたりだろう。きちんとアイロンのかかったシャツを着ている。着ているのに、痩せているせいで、シャツのほうが余っていた。

「牧野です。牧野茂。士郎さんに、こちらを」

声に、張りがない。弱っているのとは違う。音量はちゃんとある。ただ、抑揚が、削れている。

ベッドに腰かけてもらって、京介はいつもの問診を始めた。

「眠れないと」

「眠れないというか」牧野さんは、少し考える顔をした。「横になると、朝になってるんです。眠った気は、しないんですが」

「お食事は」

「食べてます。たぶん」

たぶん、と牧野さんは言った。嘘をついている顔ではなかった。本当に、思い出せないのだ。

「お仕事は」

「印刷を、四十年。三年前にたたみました」

「ご家族は」

「家内が、六年前に」

それだけ言って、牧野さんは、続きを言わなかった。

京介は、手首へ手を伸ばした。

「失礼しますね」

三本の指を当てる。

——温かい。脈も、打っている。

なのに、何も聞こえてこない。速くもなく、遅くもない。強くもなく、弱くもない。生きた体なら必ず喋るはずのものが、一言も来ない。からっぽの部屋に、指を当てているようだった。

知っている。この手応えを、京介は知っている。三週間前に、一度だけ。

「牧野さん。最近、よく会う方は」

「いえ。もう、誰にも」

「以前は」

「……ああ」牧野さんは、少しだけ笑った。笑うと、頬の肉がなくて、皮だけが動いた。「いましたよ。去年の秋ごろに。優しい人でね。会うと、すーっと、楽になるんです」

やはりか、と京介は思った。三週間前と、同じ話が始まる。

「その方とは、今も」

「いえ。半年、会ってません」

京介の指が、止まった。

「半年」

「ええ。向こうから連絡が来なくなって。まあ、そんなものでしょう」牧野さんは、なんでもないことのように言った。「こっちも、そのころには、困らなくなってましたから」

困らなくなった。

京介は、その言い方を、頭の隅に置いた。

目で促すと、波が牧野さんの肩に、そっと手を置いた。波が触れれば、患者の体に溜まっているものが、いくらか波のほうへ移る。それで少し、楽になる。

波の手が、置かれた。

置き直された。指の腹で、そっと押される。

「……先生」

波の顔から、笑いが消えていた。

「何も、来ません」

「何も?」

「重いのも、痛いのも、悲しいのも。何も来ないんです。こんなの、初めてです」波は、自分の掌を見た。「触ってるのに、触ってないみたいで」

奥で、龍之介が立ち上がっていた。牧野さんのほうを見て、目の焦点がわずかに揺れている。京介が目で問うと、龍之介は待合のほうへ半歩下がって、声を落とした。

「先生。あの人、色が」

「薄いか」

「ないです」龍之介は言った。「薄いんじゃありません。ない。輪郭のところに、何も乗ってないんです。……壁とか、椅子とか、そういうものと、同じです」

三週間前、京介はこの子の言葉を「考えすぎだ」と切り捨てて、そのあとで撤回した。同じ間違いは、しない。

——抜かれている。

京介は、そう見た。ならば、あとは満たせばいい。

そう思ったとき、牧野さんが鞄の口を開けた。

「そうだ、先生。これ、腰に塗ってるんですが。塗り方、合ってますかね」

出てきたのは、白い、丸い容器だった。掌にのるくらいの。蓋には、見慣れない外国の字が並んでいる。

京介の背中が、すっと冷えた。

——同じものだ。

三週間前、安藤洋子が鞄から出したのと、寸分たがわず同じ容器。同じ字。同じ大きさ。

「牧野さん。それは、どちらで」

「もらったんです」

「どなたに」

「さあ」牧野さんは、容器をくるりと回した。「誰だったかな。……まあ、いいじゃないですか。よく効きますよ、これ」

そして、思い出したように言った。

「ああ、そうだ。今日、一人、連れてきたんです。腰の悪い知り合いでね。いい先生がいますよって。……待合に、いますよ」

京介は、顔を上げた。

待合の古いソファに、いつのまにか、男が一人、腰かけていた。

戸の開く音を、京介は、聞いていない。

四

「瀬川と申します」

男は、そう名乗った。予約票の字は丁寧で、癖がなかった。本当の名かどうかは、わからない。

四十代の半ばだろうか。中肉中背。紺のジャケット。特徴らしい特徴が、何もない。すれ違って三歩で忘れる種類の顔だった。

「腰が痛みまして。牧野さんに、よくしていただいている先生がいると伺って」

瀬川は、脱いだジャケットを几帳面に畳んで、ベッドの端に置いた。動作が静かだった。物音を立てないのではない。立てる必要のある音だけを、正確に立てている。

「失礼して、脈を」

京介は、その手首に三本の指を当てた。

——打っている。

速くも、遅くもない。強くも、弱くもない。

同じか、と一瞬思った。牧野さんと同じで、何も語らない脈か、と。

違った。

牧野さんの脈は、からっぽの部屋だった。指を当てても、返ってくるものがない。

瀬川の脈には、部屋がある。家具もある。人もいる。全部そろっている。ただ——動かない。

速さも、深さも、強さも、正しい。正しすぎる。人の脈というのは、こんなふうにはならない。息を吸えば少し速くなる。吐けば緩む。何かを思い出せば、そこで一度、つまずく。その小さな乱れの連なりを、京介は「生きている」と読む。

この脈には、乱れが、一つもなかった。

「瀬川さん。少し、深く息を吸ってみてください」

瀬川は、素直に吸った。

脈は、変わらなかった。

「止めてみてください」

止めた。

変わらない。

「……もう、けっこうです」

瀬川が息を吐いた。それでも、変わらなかった。

細いものが背筋を這っていく感覚が、京介にはあった。

待合へ出ると、龍之介がついてきた。

「どうだ」

「色は、あります」龍之介は口早に言った。「濃いです。むしろ、丸田さんより濃いくらいで。……でも」

「でも」

「揺れてないんです」

京介は、この子の顔を見た。

「息をしても動かないんです。しゃべっても広がらない。ずっと同じ形で、そこにあります。……塗ってあるみたいに」

朝、龍之介は言った。生きている人で、揺れていないのは、見たことがない、と。

「疲れていないだけだろう」

京介は、そう言った。

言ってから、また、と思った。三週間前と同じ言い方をしている。この子の見たものを、自分の知っている枠に押し込もうとしている。

龍之介は、今度は食い下がらなかった。ただ黙って京介を見た。その目のほうが、こたえた。

施術室の入口で、波が動かずにいた。

「波」

「……行きたくないです」

京介は、少し驚いた。この子が患者に近づきたくないと言ったのは、初めてだった。

「重いのか」

「重くないです。全然、来ません。牧野さんとも違います」波は、自分の腕をさすっていた。「牧野さんは、触っても何も来なかった。あの人は……近づくと、こっちのが、減る気がするんです」

五

京介は、引き出しを開けた。

布にくるんだ、一本の鍼。刺すための鍼ではない。先が丸く、刺さらない。皮膚に当てて使う、純金の鍼だ。金龍鍼という。泉の家に代々受け継がれてきた一本で、出番は、人の体が人ならざる何かを語りはじめたときだけだった。

答えを出すために使うのではない。出した答えが正しいかを、確かめるために使う。

だが今日は、まだ答えが出ていない。

京介は、それでも鍼を持った。

まず、牧野さんの首の付け根に、そっとかざす。人のエネルギーが出入りする場所だ。

金が、すっと、冷たくなった。

指先から、熱が逃げていく。三週間前と同じ冷たさ。空になった者の冷たさ。

——やはり。

次に、京介は、瀬川のほうへ回った。

「瀬川さん。少しだけ、失礼します」

「どうぞ」

その首の付け根に、金龍鍼をかざす。

曇るか。匂うか。冷えるか。この鍼の答えは、三つのうちのどれかだ。

金龍鍼は。

——何も、言わなかった。

曇らない。匂わない。冷たくもならない。掌の中で、昼の光をそのまま返して、ただそこにある。

健やかな人にかざしたときと、まったく同じだった。

京介は、鍼をかざしたまま、動かなかった。

脈は、あんなにおかしい。色は揺れない。波が近づきたくないと言う。それなのに、鍼は、この人を、なんでもない人間だと言っている。

この鍼が何かを告げたことは、これまで何度もあった。

何も告げないことが、これほど恐ろしかったのは、初めてだった。

六

京介は、鍼を布に戻し、丸椅子に腰を下ろした。

考えなければならない。鍼は、もう手伝ってくれない。

目を閉じて、今日この二人が自分から喋ったことを、順番どおりではなく、並べ直してみる。

——半年、会っていない。

——そのころには、困らなくなっていた。

——誰にもらったか、思い出せない。

——「今日、一人、連れてきたんです」。

京介は、目を開けた。

一つ目が、おかしい。

抜きは、会っているあいだにしか起きない。相手の首の付け根に触れて、そこから吸い出す。離れていれば、抜かれない。三週間前、安藤洋子は「会うたびに」空になっていった。会うのをやめれば、そこで止まる。止まって、時間をかけて戻っていく。

牧野さんは、半年会っていない。

なのに、空のままだ。戻っていない。それどころか、安藤洋子より、はるかに深く空いている。

なぜ戻らないのか。

二つ目。困らなくなった、と牧野さんは言った。

抜かれる側は、抜かれるほど相手に会いたくなる。会えば楽になるからだ。楽になった分だけ空になり、空になるからまた会いたくなる。そうやって縛る。抜き手のほうから連絡を絶つ理由が、ない。

絶ったということは。

——もう、取るものが、なくなったからだ。

そして三つ目。白い容器。

三週間前、安藤洋子は、あれを「あの人にもらった」と言った。効くから、と言われて持たされた。手元にあるだけで、また会いたくなる。そういう紐だ。

牧野さんは、もらった相手を忘れているのに、まだ持っている。

いや——。

京介は、施術室のほうを見た。牧野さんの鞄の口が、少し開いている。

さっき、牧野さんはあの中に手を入れた。入れて、探した。探して、一つ、取り出した。

一つ取り出すためには、いくつか入っていなければならない。

京介は立ち上がり、そばへ行った。

「牧野さん。その塗り薬。もう一つ、お持ちですか」

牧野さんは、うつ伏せのまま、あっさりと言った。

「ありますよ。四つ」

「どうして、四つも」

「渡すからです」

「どなたに」

「士郎さんの店の、常連さんに」牧野さんは天井を見たまま言った。「競馬の新聞を読んでる人と、木曜に来る、化粧の濃い人と。あと二人」

「なぜ、渡すんです」

「よく効くから」

「効きましたか」

牧野さんは、少し黙った。

「……どうだったかな」

京介の中で、すべてが静かに一列に並んだ。

三週間前、京介は、安藤洋子から中身が持っていかれるのを止めた。だからあの人は生きて帰った。

牧野さんは、止まらなかった。持っていかれ切った。

持っていかれ切った人間を、抜き手は、捨てない。

容器を持たせて、次の人のところへ、歩かせる。

空になった器は、何も感じない。だから疑わない。断らない。疑うにも断るにも、心のどこかが動かなければならないのに、動く場所が残っていない。命じられたことを、そのままやる。

——抜かれた者は、捨てられるのではない。使われるのだ。

「先生」

龍之介の声が、うしろでした。青い顔をして、けれど目を逸らさずに、この子は言った。

「牧野さんが、瀬川さんを連れてきたって、言いましたよね」

「ああ」

「順番、逆じゃないですか」

京介は、振り返った。

「牧野さんが連れてきたんじゃなくて。牧野さんが、連れてこられたんじゃないですか。……ここに」

隣のベッドで、瀬川が、うつ伏せの顔をこちらへ向けて、静かに笑っていた。

その顔は、笑っていても、色が揺れなかった。

七

「いい弟子さんですね」

瀬川は、ゆっくりと身を起こした。畳んだジャケットを取り、皺を伸ばして、腕を通す。

「波。牧野さんを、待合へ」

京介の声から、温度が抜けていた。

波が牧野さんに手を貸して出ていく。牧野さんは逆らわなかった。逆らうという発想が、なさそうだった。龍之介だけが柱のところに残った。京介は追い返さなかった。誰かが、この男を見ていなければならない。

「あなたが、抜いた」

「抜く」瀬川は、その言葉を口の中で転がした。「人聞きの悪い言い方をなさる」

「他に、言いようがありますか」

「あります」瀬川は袖口を直しながら言った。「瀉(しゃ)ろした、と申し上げています」

京介は、目を細めた。

鍼の言葉だ。足りないものを補い、余ったものを瀉ろす。補うか、瀉ろすか。人の体に何かをするとき、道はその二つしかない。京介が毎日やっていることも、突きつめれば、そのどちらかだった。

「あなたも鍼を」

「学びました。ずいぶん昔に」瀬川はうなずいた。「先生の家のやり方とは、違いますが」

「瀉法は」京介は言った。「余っているものを、減らす技です」

「ええ」

「あの人に、余っているものが、一つでもありましたか」

瀬川は、待合のほうへ目をやった。牧野さんが、ソファに腰かけて、壁の似顔絵をぼんやり眺めている。

「ありましたよ」瀬川は言った。「最初はね」

京介は、拳を握った。握ってから、自分でも意外なほどそれが強いことに気づいた。

「六年前に奥さんを亡くされて、三年で仕事もたたんだ。それで何が残ったと思います?」瀬川は穏やかに続けた。「余っていたんですよ、あの人には。行き場のないものが、たっぷりと。行き場がないというのは、詰まっているということでしょう。詰まっているものを、瀉ろしてさしあげた。会うたびに、あの人は楽になった。ご本人が、そうおっしゃっていた」

「楽になったのではない」京介は言った。「軽くなったんだ。減ったから」

「同じことでは」

「違う」

京介は、一歩、前に出た。

「悲しみが詰まっているなら、流してやればいい。流すのは、流すだけだ。あなたがやったのは、悲しみと一緒に、あの人が持っていたものを全部持っていくことだ。奥さんの顔も、印刷所の匂いも、四十年分、全部」

瀬川は、少しだけ首をかしげた。

「持っていったのではありません。あの人が、渡したんです」

「——」

「私は一度も、無理に取っていない。毎回、あの人のほうから、聞いてほしいと言って会いに来た。話して、楽になって、また会いたいと言って帰った。それを脅したとも騙したとも、私は思いません」

責めるでもなく、勝ち誇るでもなく、事実を読み上げるような声だった。

「先生。愛というのは、弱さです」

「……」

「持っているから、減るんです。誰かに向けているから、そこから漏れる。あの人は、奥さんに向けたまま、開けっぱなしにしていた。開けっぱなしのものは、いつか外に出ます。私が受け取らなくても、いずれこぼれて終わっていた」

「だから、先に取ったと」

「閉じておけば、こんなことにはならない」瀬川は、自分の胸のあたりを掌で軽く押さえた。「私は、閉じています。二十年以上、閉じたままです。だから、減りません」

京介は、その手つきを見た。

脈が乱れないはずだ。色が揺れないはずだ。この男は動かないのではない。動かないように、自分で自分に栓をしている。ずっと。

「——何を、閉じたんです」

瀬川の指が、胸のところで、一度だけ止まった。

止まって、離れた。

「腰の話をしていたはずですが」

瀬川は、そう言って、ドアのほうへ歩き出した。

「三週間前、こちらで、私の知り合いが一人、手放されました。安藤さんという方です。……あれには、少し驚きました。あの人からは、もう何も出てこない。連絡も来ない。困りもしない。あんなことができる家が、まだ残っているとは思っていなかった」

「だから、見に来たのか」

「見に来たのではありません」瀬川は、初めてはっきりと京介を見た。「お見せしに来たんです」

瀬川の目が、京介の腰のあたりに、一度だけ落ちた。

ほんの一瞬だった。それから何事もなかったように、待合のほうへ視線を戻す。

「先生は、あの人もなんとかしようとお思いでしょう。どうぞ。私は、外で待っています」

そして、静かに付け加えた。

「返すものがある人と、ない人がいますよ」

八

「波。外へ出なさい」

「先生」

「出なさい」

波は唇を噛んで、それでも従った。この人の空をまともに吸えば、波の体がもたない。牧野さんの空は、安藤洋子のそれよりはるかに深い。

龍之介だけが、壁際に残った。

「牧野さん。少しだけ、目を閉じていてください」

牧野さんは、素直にまぶたを下ろした。素直すぎた。

左の義眼に指を当て、外す。

背に手を回し、腰の上に埋めた鍼を、抜く。

金龍鍼を両の掌で包み、額の前へ捧げる。

世界が、色を持って立ち上がってきた。牧野さんの体の輪郭には——本当に、何も乗っていなかった。壁と、椅子と、同じだった。

「——足(た)りたり。執(しゅう)を解(と)き、咎(とが)を捨(す)てて、本(もと)つ処(ところ)へ還(かえ)りませ」

もう、いい。じゅうぶん、がんばった。帰ろう。

襟をくつろげ、自分の首の付け根に金龍鍼を当てる。そこを、開いた。

世界が、裏返った。

——広かった。

京介は、一瞬、方角を見失った。

安藤洋子の中は、家具を運び出したあとの部屋だった。がらんとしていたが、部屋ではあった。壁があり、床があり、隅があった。だから底に手が届いた。

牧野さんの中には、部屋が、なかった。

壁がない。床がない。隅がない。どこまでも開けていて、どこにも当たらない。手を伸ばしても、何にも触れない。

京介は、それでも探した。

六年前に亡くなったという奥さんの、声でも、手でも、皿の音でもいい。四十年やった印刷所の、インクの匂いでもいい。抜かれた者にも、いちばん底にはたいてい何か残っている。誰にも渡さずに、握っていたものが。

三週間前も、そうだった。台所の床の冷たさと、明るくしては伏せた画面の光と、それでも朝まで消さなかった名前の並び。あれがあったから、返せた。

ここには。

——ひとつだけ、あった。

京介の手が、それに触れた。

白い、丸い、掌にのるくらいの、容器の重さ。

ポケットに入れておくときの、布が少しだけ引っ張られる感じ。指の腹で数えるときの、蓋のふちの丸み。渡すときの、手のひらの向き。

それだけが、この人の底に、残っていた。

愛の代わりに、務めが入っていた。

京介は、動けなかった。

やがて、自分の中の温かいものを、そこへ流し込んだ。

溜まらなかった。

漏れるのではない。漏れるには、器が要る。この人には、器そのものがない。注いだものは、ただ広い場所に散っていった。雪が水面に落ちるように。落ちた先も、落ちたあとも、ない。

もう一度、注いだ。

同じだった。

「牧野さん」京介は、内側から語りかけた。「あなたは、ひとりぼっちじゃない」

返事が、なかった。

安藤洋子は、返してきた。——でも、誰も。そう言い返してきた。言い返せるということは、まだそこに誰かがいるということだった。

牧野さんは、何も言い返さなかった。

「奥さんのことを、覚えていますか」

……。

「印刷所の、匂いを」

……。

「あなたは、誰かに何かを渡そうとしている。それは、あなたが決めたことですか」

わずかに、何かが動いた。

京介は、そこへ手を伸ばした。

動いたのは、容器の重さだった。渡さなければ、という、それだけだった。

あとは、一言だった。

両の手を、額の前から左右へ開く。送り出す手。そして、あの一語を言えばいい。

——還れ。

京介の唇が、動いた。

動いて、止まった。

還れ、というのは、帰る場所がある者に言う言葉だ。三週間前、京介は安藤洋子に、生きた毎日へ還れと言った。魔物に言うときは、あるべき場所へ還れと言う。どちらも、還る先がある。

この人に、どこへ、と言えばいい。

もう、いい。じゅうぶん、がんばった、帰ろう——帰ろう、と言いかけて、京介の中で、返ってくるものがあった。

どこへ。

答えられなかった。

そのときだった。

胸の、左側。いちばん古い、二度と温まらないはずの一点が。

ざり、と鳴った。

容器の重さに触れた指先で、京介は、それを聞いた。

愛の代わりに務めが入っている場所。それは、この人の中だけの話ではない。

京介は、両手をゆっくりと下ろした。

開かなかった。

「……終わりだ」

金龍鍼を離し、首の付け根を閉じる。腰の埋め鍼を、もとに戻す。義眼を、もう一度はめた。

世界から、色が消えた。

牧野さんが、目を開けた。

「……終わりました?」

「ええ」

「ああ、そうですか」牧野さんは体を起こし、シャツの裾を直した。「ありがとうございました。……で、いくらでしたっけ」

声に、抑揚は、なかった。

九

瀬川は、表の日陰に立って待っていた。

牧野さんが出ていくと、瀬川は「お世話になりました」と言って、丁寧に頭を下げた。腰の痛みについては、最後まで一言も言わなかった。

二人が並んで歩いていく。背の高いほうが、少し前を歩いている。他人が見れば、親戚か、古い同僚か、そんなふうに見えるだろう。

京介は、たたきに立って、それを見ていた。

追う理由が、ない。

あの男は、生きている。今日も飯を食い、笑い、また誰かに優しくする。帰る場所を、ちゃんと持っている人間だ。そういう相手に、京介の型は何もできない。

三週間前、京介は龍之介にそう言った。魔物は還せる。人は、還せない。

今日、そこに、もう一つ増えた。

抜かれ切った者も、還せない。返すべきものが、底に残っていないからだ。

救えない相手が、二種類ある。抜く側と、抜かれ終わった側。両方とも、生きて、歩いて、目の前から出ていく。

「先生」

龍之介が、うしろに立っていた。

「あの人、最後に、先生の腰を見ました」

京介は、振り返った。

「腰の、右の下です。ちょうど、あそこだけ」龍之介は、自分の腰に手を当てた。「なんで、場所がわかるんでしょうか」

京介は、答えなかった。

答えを持っていなかった。

「先生、これ」

波が、丸椅子の上を指した。白い容器が、一つ、置いてある。

「帰りぎわに、牧野さんが。先生も、どうぞって」

四つが、三つになった。

「波。触ってみなさい」

波は、おそるおそる指を伸ばし、蓋に触れ、掌にのせ、しばらく持っていた。

「……何も、来ません」

「そうだろうな」

「え?」

「何も入っていない」京介は言った。「ただの油と、香料と、それらしい字だ。仕掛けも、呪いもない」

「じゃあ、なんで」

「何も入っていないからだ」

波が、きょとんとした。

「……持ってると、思い出すからですか」龍之介が、代わりに言った。

「そうだ」京介はうなずいた。「効かなくていい。手元にあるだけでいい。ポケットに入れておけば、渡した相手の顔が、一日に何度か浮かぶ。それだけで、人は繋がれる」

京介は容器を布に包み、引き出しのいちばん奥へ入れた。捨てなかった。捨てられなかった。同じものが、どこかで、あと三つ、誰かの手に渡ろうとしている。

電話をかけた。

「士郎。牧野さんは、帰った」

『どうだった』

京介は、少し黙った。

「……悪かった」

受話器の向こうで、士郎が息を吸う音がした。士郎は、それ以上聞かなかった。

「士郎。あんたの店の常連で、競馬の新聞を読んでる人と、木曜に来る、化粧の濃い人。心当たりはあるか」

『ある』

「その二人には、牧野さんから何をもらっても、受け取るなと言ってくれ。悪いが、理由は言えない」

『わかった』士郎はあっさり言った。それから、少し声を落とした。『……京介。こないだ言った、二人目のことだが』

「ああ」

『先週から、店に来てない』

京介は、受話器を持ち直した。

『前は毎日来てた。ぱたっと来なくなった。牧野さんとは逆だ』

京介は、窓の外を見た。

抜かれ切った者は、店に来る。何も感じないから、毎日同じ席に座っていられる。

来なくなったということは、まだ、来られない理由がある側だ。

——まだ、間に合う側だ。

十

その日の診療を、京介はいつもより少し早く終いにした。

波は夕方まで何度も京介の顔色をうかがっていたが、「もう帰りなさい」と言うと、めずらしく素直に帰っていった。龍之介は記録を几帳面に閉じてから、一度だけ振り返って、何か言いかけて、やめて、出ていった。

一人になった院は、しんとしている。壁の似顔絵だけが、眉を八の字にして、京介を見ている。

京介は、丸椅子に腰を下ろした。

体が、軽かった。

それが、いやだった。

三週間前、安藤洋子を還したあと、京介の腰の右の下に、二度と温まらない一点が生まれた。差し出した分だけ、欠けた。欠けたところは冷たくて、重たくて、朝ごとに自分がそこを持っていることを思い出させる。

今日は、増えていない。

京介は、体のあちこちに指を当ててみた。腰の右の下は、いつもどおり冷たい。胸の左側も、いつもどおりだ。それ以外は、どこにも、何もできていない。

浄化は成立しなかった。だから、明け渡すべき一点も生まれなかった。

なのに、注いだ分は、確かに減っていた。

差し出したものが、どこにも刻まれなかった。

穴が増えるのは、つらい。京介はそれを知っている。

穴も増えないのに減っているというのは、もっと、寒かった。

京介は立ち上がり、奥の棚の前に立った。

いちばん下の引き出し。ふだんは、開けない。

その中に、古い桐箱がある。兄の、ものだ。泉仁。京介より、五つ上の。

三週間前、京介はあの箱の蓋に指をかけた。かけた瞬間、胸のいちばん古い冷えた穴がうごめいた。冷えた穴は何にも反応しない。死んだ一点のはずだ。それなのに、あの箱にだけは、答える。

今日、あの一点は、もう一度鳴った。

牧野さんの底に、容器の重さしか残っていないのを、この指で確かめたときに。

京介は、引き出しの取っ手に手を伸ばした。

伸ばして、止めた。

——今日は、やめておこう。

もし今日この箱に触れて、胸のあの一点がまた鳴ったら。京介は、それをどちらの意味に取ればいいのか、わからない。兄を思い出しているのか。それとも——自分の中にも、愛の代わりに務めだけが残っている場所が、もうできているのか。

答えを聞くには、今日は、少し、減りすぎていた。

京介は、手を下ろした。

翌朝も、雀が鳴いた。

京介は、関節をひとつずつ思い出すようにして起き上がる。首をまわす。腰の右の下が、しんと冷たい。

白湯を一杯。階段を降りて、暖簾を出すか出さないかのうちに、表の戸が開いた。

「先生。今日は、ちゃんと寝ましたね」

波だ。昨日のことなど、けろりとしている。いや、けろりとしているふりが、この子は上手いのだ。

「先生。今日も、脈、診させてください」

波が、手を伸ばしてくる。

京介は、その手を、引いた。

「はい」波は、そう言って、笑った。「じゃあ、また明日、聞きます」

空はよく晴れている。雀は気持ちよさそうに鳴いている。世界のほうは、今朝も、何ひとつ、京介を憂鬱にさせるようなことをしていない。

それなのに、泉京介は、やっぱり、少しだけ憂鬱だった。

どこかの街を、脈の乱れない男が、今日も普通に歩いている。その半歩うしろを、もう何も感じない人が、ポケットに三つの容器を入れて、ついていく。

そして、店に来なくなった人が、一人いる。

それでも京介は、今日も、暖簾を表に出す。朝の光が、たたきに長く差し込んだ。

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陽の内に、陰が潜む。参ノ型「人」。

怪異よりも、生身のほうが怖い話です。悪意、狂気、隣人。この型がとりわけ厄介なのは、相手が理屈を持っていることです。筋の通った言い分は、否定しにくい。否定できないものには、手が出せない。本作はその領域を、依代師ユニバースの視点から描いた一篇です。

研

研一

依代師ユニバースの作者。連載小説「泉京介の憂鬱」、「黒竜人」シリーズを執筆。